片恋模様 緑間ver.(※緑黒) 

        (※緑黒プチオンリー発行のアンソロジーに寄稿させて頂いた「片恋模様」という作品です。
         こちらアンソロ版で緑間視点、サイト版は黒子視点+αの作りになっています。)






        ある夏の日、五限後の休み時間。
        運動着からすばやく制服に着替えた緑間は、赤司の元を訪れていた。
        「部室の鍵を、貸して欲しいのだよ。」
        赤司は緑間の顔をチラリと見たきり何も言わず、机の脇にあるバッグから取り出した鍵を手渡した。
        「部活前には返す。」
        「・・・・・・それはスペアだから、返してくれるのは明日でいい。」
        「分かった。」
        「真太郎は眼鏡がないと、何だか別人みたいだな。」
        「・・・・・・良い意味には聞こえないが。」
        知らない人には不機嫌に見えるだろう、常にかけているはずの眼鏡をかけていない緑間の素顔の表情は硬い。
        視力が矯正されておらず、目を細めて睨みつけるようにしている今の表情なら尚更だった。
        鍵を受け取りすぐさま教室を出ていこうとする緑間の背を、赤司は再び呼び止める。
        「そうだ、真太郎。」
        「何だ、急いでいる。」
        「・・・・・・いや、そんな危なっかしいまま部活に出るつもりか。」
        「お前に言われなくとも、このままじゃ練習にならないだろう。放課後、すぐ作り直しに行くのだよ。」
        「そうか、なら今日は人数が揃わないな。大輝や、他の皆にも伝えておこう。」

        何か主題を省略したような喋り方をしてくる赤司の元を去ったのち。
        緑間は西陽の照りつける白い校舎脇を通り抜け、運動部の部室までやってきていた。
        隣接している教室棟からは休み時間の喧騒も消え、あたりは静まり返っている。
        元より授業開始時刻には遅れるつもりでここまでやってきたのだ。
        借りてきた部室の鍵を取り出しても、目に映る周囲は全てぼやけている。うつむいても手元はよく見えない。
        鍵が鍵穴にうまく刺さらず、ドアノブに2度空振りしてからどうにか回して扉を開けた。
        緑間の裸眼の視力はかなり悪くなっているため、誰もいない部室に入る足取りも慎重にならざるをえない。
        カーテンの引かれた薄暗い部室内は、昼下がりの熱気がこもったままで少し埃っぽい匂いがした。
        おぼろげに見えるロッカーとホワイトボード。 歴代の優勝トロフィーの飾られた大型キャビネット。
        脇に置かれたデスクの上には、誰かが持ち込んだバスケ雑誌が乱雑に開かれて放置されている。
        いつもなら不満げにしながらも片づけてしまう緑間だったが、手元のおぼつか無い今は放っておくしかない。

        一軍用の自分のロッカーへ向かえば、中にはバッシュや替えの運動着、
        普段あまり使わない辞書などが整然と置かれていた。片付けられてはいるが、思いのほか荷物が多い。
        この中から小さな眼鏡ケースを見つけるのはさぞ骨が折れるだろう。
        よく見えないということの不便さを更に実感してしまう。
        私物をざっと見渡し、さらにロッカー上の何が入っているか忘れてしまった段ボールの中身を
        確かめようと箱を持ち上げたところに、
        「あの。」
        ふいを突くように背後からかかった声は、入ってきたドア側からではなかった。
        訝しげに振り向けば、窓を覆うカーテンの下、ソファで休んでいた黒子らしき人物が起き上がったところだった。
        抑揚のない声で問いかけてくる人物は、緑間の不鮮明な視界の中、
        安穏とした動作で脱いでいた上履きに足を入れているようだ。
        「眼鏡、どうしたんですか。」
        「・・・・・・フレームが折れて、とても使えたものじゃないのだよ。」
        「え、」
        「今しがた体育で折った、・・・幸いレンズは無事だが。」
        眼鏡のない緑間は、目を細めて黒子の方を見るが、視力が追いつかず表情までは伺えない。
        「それは、・・・不便ですね。スペアあるんですか?」
        「だから今探している。ロッカーに予備を置いてあったはずだが、なければ家だろう。」
        緑間の返答に納得したのか、黒子は少し背筋を伸ばすようにして立ち上がり、すぐ近くの窓ガラスを開けた。
        夏も終わりに近付き、そよそよと流れてくる昼下がりの渇いた風。
        窓際のレースカーテンが風通し良く揺れるのを背にして、何をするでもない。
        バスケ部の部室は扉側のロッカールームと、奥の資料室を兼ねたミーティングルームに分かれている。
        黒子はミーティングルームへ通じるドアの傍に置かれた、窓際のベンチソファに再び背を預けた。
        「・・・それで、お前は何をしている。」
        「いえ、四限の水泳のあとから、・・・・・・ちょっとだるくて。」
        「昼休みにここへ来て、そのまま寝過ごしたのか。」
        「この時間までサボっちゃいましたけど、たぶん誰にも気づかれてないでしょう。」
        黒子特有の気配の薄さは相変わらず、部室に入った緑間も声を掛けられなければそのまま気づかずにいただろう。
        「無茶をしろとは言わないが、お前はもう少し体力をつけた方がいい。パスの精度が落ちるのは許されないだろうからな。」
        「・・・・・・ハイ。」
        「保健室には、行かなくていいのか。」
        「大事でもないし、ちょっと寝られれば良かったんで。」
        プールの授業のあとの気だるさが抜けきらない。
        昼寝から覚めた直後の、少し覇気のないぼんやりとした声で黒子が受け答えする。
        「キミは、コンタクトにはしないんですか?」
        「しない。」
        「まつ毛長いと、具合悪そうですもんね。」
        窓辺で涼んでいるらしい黒子は、最初から答えが分かっている風な言い方をした。
        全ての物の輪郭がぼやけた世界で、背中から陽に照らされている黒子の表情は逆光で確認できるはずもなく、
        緑間は黒子の方を向かぬまま再び荷物の中を手探りして、その声だけを拾っている。
        「探し物、見つかりそうにないですか。」
        「本当にあるかも定かじゃない、しかもよく見えん。」
        「良ければ僕が探しましょうか。」
        「いらん、座っておけ。」
        「少し疲れてただけなんで、もう大丈夫です。眼鏡、どんな形ですか。」
        「・・・・・・黒いケースだ。」
        「分かりました、手伝います。」
        近付いてきた黒子は緑間の前に割り込み、遠慮なくロッカー内の荷物を漁りだした。
        うつらうつらしていたかと思えば、手際よく緑間の私物を分けている黒子の態度に文句のひとつも言いたいところだったが、
        すぐ傍らにいて揺れ動く黒子の後頭部から、プールに撒かれたカルキの匂いがかすかに香ったのを感じて、
        思わず緑間は動きを止めた。 視覚で捉えられない分は嗅覚で、より強く相手を認識してしまう。
        本当は相当、意識している。
        緑間は自分が黒子の存在を強く意識してしまっている事に、とうに気づいていた。



        ほんのりと、密かな感情の芽生えというのは意外なほどに単純だ。
        廊下の曲がり角を折れた時、教室へ入っていく姿をふと見かける。
        それだけで、珍しいこともあるものだ。と最初は思っていた。

        しかし気配は薄いものの、黒子はわざわざ身を隠しているわけではないので、始終見つからないわけではない。
        教室を移動している姿を見る、廊下ですれ違うこともある、図書委員として職務についていることもある。
        校内でもとりわけ目立つ存在の青峰だったり黄瀬だったりが近くにいて、話しかけられている姿も時折り見かける。
        そうして次第に、クラスの違う部活仲間を部活以外の場面で見つける回数が多くなった。
        正直に言ってしまえば、最初はレギュラー争いをしていく同学年の部員たちの中でも軽視していた存在だった。
        青峰と練習しているらしい事は知っていたが、身体能力に特筆すべき点は一つもない。
        下手すれば三年間、三軍止まりの選手であっただろう。
        仲良しごっこで練習に付き合う青峰の気が知れなかった。
        ただ埋没しがちな平凡さとは対照的に、黒子の精神面は脆く崩れるようなものではなかった。
        赤司の目に留まってからの黒子は、パスの精度を飛躍的に上げ中継役として見事な成績を残し、
        誰にも文句を言わせず、一軍レギュラーに図太く這い上がってくるまでになった。
        チームの為を思い、本当ならば自ら点を入れたいであろう望みを切り捨てて、
        唯一期待されている役割に徹することのできる人物を、初めて強いと思えた。
        一人だけ明らかに違っていて、皆で勝ちたいという主張はあっても、能力を誇示して目立つようなことがなかった。
        周囲で凌ぎを削る、才能や体格に恵まれた選手とは全く異なる強さだった。
        何故か甘く切ない、季節が過ぎていく頃に妙な感覚が芽生えてからずっと、胸を離れなくなった。
        どうしてそうなるのか分からぬまま、自然と目で追うようになった。

        ある梅雨の日、傘を差し足早に帰路を急ぐ顔の見えない生徒たちの隙間で、
        普段と変わらず淡々とした風体で歩く黒子の気配はいつもよりずっと濃く感じられて、思わず息を呑んだ。
        身体に絡みつく雨天の蒸した空気に、ざわつく胸の痛みをも絡め取られた気がした。
        ある夏の渡り廊下、炎天下の水泳の授業の後に、珍しく半袖シャツを着崩した黒子とすれ違った時には、
        気づいた者だけを惹きつけて止まない、ごまかしのない清潔な雰囲気を好ましく感じた。
        深みにはまっていくのがありありと分かる。 知りたい、話したい、などと具体的な接触を望むことはない。
        そこまで考えつくほど育った感情ではなかった。
        ただ厚く深く蓄積し、身体中に染みて広がっていく甘苦しい痛みだけが募っていった。

        そして今、目の前にいる黒子の髪から香ったカルキの匂いから、
        健全で、そしてよこしまな欲の気配を、緑間は初めて感じ取ってしまった。
        ロッカーの中に目を向けたままの黒子を背後から両腕で囲ってしまえば逃げ場はない。
        閉じ込めてしまえばいい。抱きしめてしまえばいい、その先も。
        きっと罠にはまるようなことを平気でする方が悪い。
        まだ準備の出来ていない未完成の蜘蛛の巣に、獲物自ら飛び込んできてしまったような感覚。
        目の前に在るこれが自分以外の誰かのものになるなど、考えたくもない。
        相手に触れてみたいと思う、けれど今まで持ったことのない未知の衝動のままに
        これ以上踏み込んでしまうのは怖ろしい。知りたい、知りたくない。
        夕刻へ向かう時間帯の部室内で、カーテンから透けて見える晩夏の青空の色と、
        目の前の黒子の存在しかはっきりと感じることができない盲目の緑間はここにきて困惑した。

        「あ、これじゃないですか?」
        ロッカーを横目に振り向いた黒子の声でようやく我に返り、渡されたケースを開けば、
        確かに以前使っていた眼鏡が入ったままになっていた。
        レンズの汚れを軽く拭き取って装着し周囲を見渡せば、ぼやけていた風景がようやくクリアになる。
        緑間の目の前で、首を回し斜めから見上げてきていた黒子のまだ渇ききらない濡れた髪の毛先が
        首筋の後ろにかかっているのが至近距離で見て取れた。
        糊のきいたシャツの襟元にはしっかり折れ目がついていて、ひんやりとしていそうな質感の白い肌が覗く。
        「・・・少し度が合わないが、何も見えないよりずっとマシだろう。」
        戸惑いの視線を脇に逸らした緑間は、眼鏡のブリッジをあげてわざと語調を固くした。
        「良かったです、素顔のキミは若干弱っているように見えたので。」
        口の端をほころばせ控えめに笑う黒子の気配に、目を逸らしていても気づいてしまう。
        意識をもっていかれる。
        あどけなく欲しがってしまう初めての衝動を全て見透かされているような気がして居たたまれなくなり、
        黒子の手元の眼鏡ケースを奪うようにして取り戻す。
        「その古いスペアをかけている頃はキミとあまり話したことが無かったので、今と印象が違いますね。」
        緑間の内情を知ってか知らずか、黒子は躊躇いなく話しかけてくる。
        「・・・・・・去年までかけていたものだが、」
        「知っています、青峰くんと、緑間くんと、紫原くんは一年の頃から目立ってましたから。」
        余裕の見えるその言葉におそらく他意はない。
        静かに息を吐いた緑間は、黒子をよけてロッカーを閉めた。

        授業中に居座り続けるのも良くないと、後ろポケットから鍵を取り出したのは黒子の方だった。
        「その鍵はどうした。」
        「昼休みに赤司くんにお借りしました、返すのは明日でもいいそうです。」
        スペアキーをそれぞれに渡した赤司が思い描いた盤上には、二人が出くわすだろう事は計算に入っていたのだろう。
        「・・・・・・それで、体調はもういいのか。」
        「そういえば、知らないうちに治ってますね。」
        答える黒子は額にくっ付いた湿った毛束を指先で散らしている。
        確かに、先程までの力の入らない様子ではない。
        「暢気なヤツだな、部活はどうするのだよ。」
        「赤司くんに、大事を取って今日は欠席するようにと言われています。
         青峰くんには怒られそうですけど。キミは、」
        「眼鏡を直しに行くに決まっているだろう、練習中に危なっかしいのはいらんと暗に言われたからな。」
        「付き添い、必要じゃありません?」
        「・・・・・・何が目的だ。」
        「寝過ごした授業のノート写させてもらえませんか。数学教わってる先生、一緒ですよね。」
        「修繕待ちの間でいいのか。」
        「ついでで良いです。ちょっと分からない所あるんで、良ければ何処かで教えてください。」



        放課後の待ち合わせをしてから、部室を出る。
        戻り際、黒子が窓へ近寄り、風になびくレースカーテンを一括りにするのを出入り口側から眺めていた。
        窓枠に細い手を伸ばしてから突然、思い出したように緑間を振り返った黒子は、
        「やっぱりその眼鏡、一年生の頃のキミと喋っているみたいで、ちょっと面白いです。」
        と、告げてきた。
        「昇格テストに受かるまで、キミと喋った事はありませんでしたから。何だか去年をやり直しているみたいで。」
        「・・・・・背が伸びたぐらいで、他はそんなに変わっていないと思うが。」
        「それでも、結構嬉しいです。」
        おそらく他意はない。 緑間は、今度は小さくため息をつく。

        校庭から入った風が黒子の元を通り過ぎ、同じように自分を通り過ぎていく。それだけで今は充分だと思った。
        黒子が戸締りをする間際、緑間はその始まりの秋風を吸い込む。
        窓辺を背に、黒子の口元は微かに笑っていた。