透き間 







        胸元で引き絞られたシャツが緩まない。
        黒子は、目の前の黄瀬の胸元を突き飛ばさん勢いで額を強く押しつけてきて
        顔を埋めたままその位置から離れようとしなかった。
        ベッドの上で、想い人に熱烈にしがみ付かれている、そんな甘いものではない。
        黒子の両手は縋るように、黄瀬の制服のシャツを掴んで離さない。
        固く結ばれた両手の指の隙間に、皺だらけになった制服のシャツが入り込んでいる。
        自分に比べれば小さなその身体は腕の中にちょうど良く納まってしまうのに、
        その身に秘めていたこの獰猛さは何なのだろう。
        ぬくもりを感じるより前に、圧迫された上半身が痛いぐらいだ。

        それでも、眼前にあるサラサラと手触りの良さそうな細い髪の毛と、
        厚みは無いが形の整った耳たぶに目を注いでしまうと
        触りたくもなるし、口に含んで味を確かめてしまいたくなる。
        たまらず距離を縮め、腕を回しシャツの下に潜り込ませようとする正直な手のひらは
        不純に動き出した途端、容赦無くはたかれてしまった。
        黄瀬のシャツを握って離さなかった手は、いざ黄瀬が接触を図ろうとすると俊敏に動き出し、
        その行為を許さない。自分から触るのはいいが、触られるのは嫌。
        今は邪魔をされたくない。
        無言のままにそう伝えられ、再びネクタイごと胸元の布地を引き絞り、しがみ付かれる。
        額ごと擦り寄り潜り込んでくる。首が後ろから絞めつけられる。

        力で押さえつけて事を進めてしまうことも出来たが、更なる災いの種を自ら振りまくのはゴメンだ。
        拠り所の無い黄瀬の手は、黒子の小脇に申し訳程度に添えられるだけとなっている。

        部屋へ招いた途端に、この調子だった。掴みかかった後、何を語りかけても返答が無い。
        うつむいている顔の表情は見えない。
        強張った背中を優しく撫でてみると、今度は抵抗がなかった。
        こうなった原因はさて何であっただろうか。途方に暮れた黄瀬は想いを巡らせるより他なかった。








        誠凛VS秀徳戦を観戦後、先輩の笠松と立ち寄ったお好み焼き店で偶然、誠凛バスケ部メンバーと顔を合わせた。
        雨宿りと疲労回復、決勝リーグ進出の祝勝会もかねて、帰路の途中で立ち寄ったとのことだった。

        一気に賑やかさを増した店内で、座る席を探していた黒子の手を掴み、軽く引いて自分の隣に座らせる。
        目の前の笠松はおそらく気付いていただろうけれど、見て見ぬ振りで鉄板のお好み焼きを黙々と口に運んでいる。
        「黒子っちはこっちっスよ。」
        軽く手を引いただけで黄瀬側によろめいた黒子は、一瞬眉根をひそめただけでおとなしく隣に着座した。
        ここまで歩いてはきたものの、2試合連続出場の疲れが相当溜まっているらしい。
        少しでも楽な姿勢にさせてあげたいところだったが、周囲の目があるため出来ない。
        「・・・・・大丈夫っスか?」
        せめても、とちらりと横顔を覗ぎ声をかければ、
        「ハイ、ボクより火神くんのがズタボロですから。」
        黒子と共に側に立っていた長身を見上げると、ジャージに付いた泥を払う火神と目が合う。
        相変わらず、穏やかだとか優しげだとか、平和的なイメージとはかけ離れた力強い光を持った眼力で
        本人にその気はなくとも、まるで睨まれているかようだ。
        「火神くん、ここ空いてるそうです。」
        「・・・・・おお。」
        「ちょっ…!なんで火神っちまで座るんスか!」
        「ああ?満員なんだから仕方ねぇだろ。」
        他の誠凛メンバーはすでに各々の席へ散らばっている。
        「黄瀬、相席でいいっつってんだろーが。ぐだぐだ文句言ってんじゃねー。」
        静かに食事をしていた笠松の怒号が飛び、渋々承諾。

        慣れあわない火神との相席に雲行きが怪しくなってきたところにすぐ、試合の敗者となった緑間が合流。
        緑間のチームメイトの思惑によって、笠松と緑間が入れ替わってしまった。

        「なんかさっきよりも空気が重くなったんスけど。」
        隣に黒子、目の前に緑間、その隣に火神。
        一言も喋らない緑間を正面に見据え、冷や汗混じりに息を吐く。
        「・・・・・とりあえず、なにか頼みませんか。お腹へりました。」
        どこ吹く風といった様子で、黒子がメニュー本を開いた後
        お好み焼きの品書きを呪文のように羅列して注文する火神と、それに慣れているかのような黒子。
        「頼みすぎなのだよ!!」
        「大丈夫です。火神くん一人で食べますから。」
        「ホントに人間か貴様!?」
        「うるっせぇーな、ほっとけ。」
        「リスみたいに食べます。」
        黒子が殊、火神に関して分かった風に話すのが気になったが、こんな場所で嫉妬をさらけ出すのも見苦しい。
        などと、煮え切らない想いを抱えたまま。
        すでに焼きあがっていたもんじゃ焼きを皆より先に食べ終え、注文待ちの黒子の様子を伺って見るも
        至って平静そのものだ。
        ステーキハウスでの一件、イベリコ豚サンドの一件、火神の常人離れした大食いエピソードを淡々と語る黒子と
        これ以上隣を見るもおぞましいと目を反らしつつ、眼鏡の位置を整える緑間。
        中指とくすり指だけで眼鏡を持ち上げるその仕草に、火神の方こそ薄ら寒いものを感じたのか、顔をしかめている。
        黒子は乏しい表情ながら、両者の反応を興味深そうに見ている。
        互いの緊張が、気まずさとは違う不快さでごまかされ崩れてきた中で
        自分が思うよりきっと黒子と火神はもう多くの時間を共有していて、多くの共通の思い出があるのだろう。
        と黄瀬は感じていた。

        帝光での中学3年間。バスケを始めたのは中学2年からだから、実際はもっと少ない。
        それ以上の濃い年月を、黒子は誠凛高校で積み重ねていく。
        真摯に、火神の成長を中学時代の面影と重ねて見つめる黒子の姿、
        枝分かれした事、新しく始まってしまっている事はもう分かっている。
        練習試合の時、黒子が欲しいと言ったのは今でも嘘じゃない。
        無理にでも、海常に誘って連れて来てしまえばよかった。
        けれどももう叶わない。叶わないけれど、側にいる権利をすんなり火神にやるのは勿体ないな、と
        思えばまた急に苦しくなる。

        人目に付きやすい低いテーブルの下では、行儀良く膝に置かれた黒子の左手に触れることすら叶わない。







        そうして期せずして異色メンバーの揃った打ち上げが終了し、それぞれに会計を済ませた頃
        緑間と、そのチームメイトは早々に去っていった。
        黄瀬は店の正面から少し離れて、傍らに寄せた黒子へ別れを告げる。
        誠凛メンバーの輪から引き剥がしてしまった形だったが、元チームメイトと積もる話があるらしいという気遣いに甘えた。
        「本当はいろいろ話したいところだけど、また今度っスね。」
        「案外楽しかったです。緑間くんも、少し変わりました。」
        「火神っちと並べると、互いに変なオーラ出してて笑えたっスねあの2人。」
        「ちょっと面白かったです。」
        結局最後まで触れることもできず、消化不良であることは否めないが大人しく帰すことにする。
        降って湧く独占欲はせめて、新たな進路に馴染んでいく彼の迷惑にならぬよう
        この場ではやり過ごさなければと思った。
        「じゃ、お疲れっス。」
        「ハイ、また・・・・・」


        「余裕のカケラもねぇな!お前ら、なんっか見ててむず痒くなるっつーかよ・・・・・。」
        別れ際、遠慮の無い突っ込みに振り向くと、笠松が短い髪を掻きながら立っていた。

        「黄瀬の、ウチでの無双っぷりが信じらんねぇーぐらいだな。」
        笠松には、黒子との関係を話したことはなかったが
        人前で嬉しそうに黒子の話をするな、と注意されたことは少なからず何度もあったので
        ただならぬ自分の気持ちはとうに漏れてしまっていたのだろう。

        「黄瀬くんはそんなにモテますか。」
        独り言だけで満足しているようだった笠松の言葉を、意外にも黒子が拾った。
        「・・・・・おうよ、海常じゃどっちかっつーと入れ食いじゃね?」
        「ちょっ!!何言ってるんスか!」
        「まぁ、愛想でたまに手振るぐらいで端から相手にしてねぇみてーだから安心しとけ。」
        黄瀬の焦りを見て、冷やかし半分で付け加えられる事実。
        笠松の目にも、後輩の恋路の本気は伝わっていたらしい。
        「一応有名人なんで、そういうのは仕方ないですから。」
        笑いもせず怒りもせず飄々と、さも当たり前のように答える黒子を見て
        笠松はますます意地悪く言葉尻を上げる。
        「透明少年はずいぶん余裕だな。黄瀬、あんま愛されてねーんじゃねぇの?」
        「笠松さんはよけいなお世話っス!!」
        黒子の返事にも引っかかるものがあったが、笠松の悪乗りを制するのが先だった。
        「・・・・・透明少年っていうのは、ひょっとしてボクの事ですか?」
        そして黒子の返答はまた別方向へ飛んでいき、
        笠松もまた半分は真面目に答えるが、半分は投げ散らかす。
        先の読めない、何が飛び出すか分からない会話に耐え切れなくなった黄瀬は
        からかい混じりの笠松へ別れを告げ、黒子を強引に連れて自宅へ帰ってきてしまった。








        「まだ、足らないみたいです。」
        ふと胸元に転がってきた言葉に、回想から意識を引き戻す。

        指全体が白むほどだった黒子の両手の力は緩んでいて、今はもう息苦しさまでは感じない。
        シャツやネクタイを強く引く力も解かれ、荒々しく掴みかかってきていた時の
        極めて珍しい粗暴な気配も失われていた。
        「・・・・・お腹すいたの?お好み焼き1枚じゃ、足らなかった?」
        「いえ、そういう意味じゃなく。・・・・・火神くんだったら分かりませんけど。」
        胸に当てられた額と、吐き出された息を生温かく感じた。
        「それは火神っちの胃袋が異常、ってか、この場で他の男の名前出すのは反則。
        ・・・・・あとで痛いおしおきが待ってるっスよ。」
        ようやく浮上してきたらしい黒子の調子を確かめようと、冗談めかして放った言葉に。

        「今、すればいいじゃないですか。」

        およそ信じられない言葉が返ってきた。
        「え・・・・・。」
        我ながら間抜けな声をあげてしまった。
        胸の狭間でくぐもった声を、聞き間違ったかに思えてしまう。
        端的に、突っぱねられると予想していたのに。
        「すればいい、と言いました。」
        今度ははっきりとした音声で、責めるような響きが、黄瀬の耳元まで届いた。
        先ほどまで隠れていた黒子の目が、意思を持ってこちらを仰ぎ見ていた。

        「・・・・・そんな売り言葉に買い言葉みたいに。」
        黄瀬を試すように覗き込んでくる眼差しに、挑発を秘め、くっきりとした目縁の輪郭に。
        一瞬息を止めて。

        「黒子っち、おねだりはもっと甘えて言わないと。」
        不満げに眉をわずかに動かした黒子から、目を反らすことなく顔を寄せる。
        「そういうところも好きだけど。」
        息がかかるほどの距離で呟いた言葉に、黒目がちな両目はわずかに見開かれたらしい。
        が、近すぎてよく判らなかった。
        唇の表面だけ啄ばむよう、被せた時にはもう瞳は閉じられていた。
        1度だけ軽く交わしたキスの後、伏せられていた目は再び開かれて、水気を多く含んで青く揺らめいて見えた。

        「仕方がないって、頭で分かっててもイヤなものですね。」
        それは、無頓着を装う彼の本心が透けた、ただ一言だった。

        「・・・・・まだ足らないです。」
        「・・・・・・・・・・。」
        「もっと、ください。」
        キスの合間に、矢継ぎ早にねだられる。
        震わせる口端を熱い舌で撫でてやり、ねぶる。あがる吐息ごと舐め取る。
        うわ言のように同じことを繰り返すのは、欲張るのに慣れていないせいだ。
        それほどに黒子が持つ独占欲の気配は滅多に表れないもので、やはり笠松の言葉が原因によるものらしかった。
        日々やり場の無い黒子が欲しいという衝動は
        これまでの黒子の行動、言葉を集約した一点で救われていると感じた。
        「うん、黒子っちにしかあげない。」
        許すのは黒子だけ、言葉で伝えるより強く抱き寄せてねだられるままに幾度も、柔らかく濡れたキスを与える。
        漏れないよう塞ぎ、深く深く圧し込める。

        息継ぎに失敗してぐずる様な物言いになってしまう黒子の言葉を、
        黄瀬はこれ以上言わせてはいけないと分かっていたのに
        酷なことに、何度でも聞いていたかった。