開花宣言(※緑黒) 







        「黒子っち、一緒に部室行こっ!」
        バスケ部内での教育係を任されたものの、あっという間に黒子の手を離れた黄瀬は
        何かにつけて頻繁に話しかけてくるようになった。
        今ハマっている音楽であるとか、話題のドラマであるとか
        普段黒子が収集しない方面の話題を挙げて、話しかけてくる黄瀬の相手は新鮮であったが、
        そんな彼に話しかける機会を伺って、少し遠くの方に控えている女生徒の事を相手にしなくていいのだろうか。
        知っていてわざと無視するような振りをしているのか、ひょっとして自分は都合のいい暇潰しなのではないか。
        たまに話に割り込んで声をかけてくる女生徒に、幾らか低く冷えた声で断りを入れる彼と
        自分の前では極めて明るく楽しそうに話している彼の二面性を、黒子は知り始めた頃だった。

        「スミマセン、ちょっと用事あるんで。先行っててくれていいです。」
        荷物を整理していた黒子の側に、さらに青峰が現れる。
        「テツ、借りてたの返すわ。助かった。」
        黄瀬の誘いをやんわりと流しながら、青峰に貸していた辞書を受け取った。
        「オイ黄瀬、行くぞ。あんまりテツに懐くと、あとが怖えーからな。」
        「はぁ!?どういう意味っスか!?」
        「それにお前、レギュラー入りしてから調子乗ってるし。」
        「んな事・・・、ちょっとあるけど!」
        「なんでそんな素直なんだよ・・・・・・、まぁいいや。」
        「今日こそは青峰っちに勝つっスよ!」
        黄瀬が入部してからの青峰は、着実に力を付けて這い上がってくる黄瀬を相手に
        目に見えて嬉しそうだ。体力のあり余っている様子の2人は、黒子を残し、部室へと連れ立っていく。



        べた付いた空気の、雨降りの放課後。
        先週末から降り続き、週明けも晴天には恵まれなかった。
        自転車通学からバスへ切り替え下校する生徒たちは、足早に裏門へと向かっていく。
        普段より人通りの多い2階の渡り廊下を歩きながら、黒子は依然、雨足の強い窓の外を見やった。
        裏門から出た通りが、最寄バス停への近道である。
        いくつもの傘の花が、くるくると、時に回転しながら通り過ぎていった。
        湿気を含んだ、雨の日の校舎の匂い。晴れた日より、はるかに蒸し暑い気温。
        あまりのだるさに気が滅入ってしまいそうで、少しでも新鮮な空気を取り入れようと、黒子は小さく息を吸い込んだ。

        黒い雲に覆われ、薄暗い校舎内。
        白い蛍光灯が、にぎやかな放課後を穏やかに照らしている。

        黒子は、雑然とした、職員室前の廊下を右に折れて進んだ。
        油壷の匂いが満ち、イーゼルの立掛けられた美術室の前を通り過ぎる。
        サッカー部員の集団が外周を走る代わりに、濡れた床の階段を上り下りするのを遠目に眺め
        上履きの底の靴音を聞く。

        鈍い靴音にまぎれて、キュ、キュ、と床に擦れる靴底。
        不規則に響く、甲高い雑音。いつまでも脳内にまとわり付く、耳障りな類のその音は
        先週末の出来事と重なって、黒子の気分を重くするだけだ。


        ようやく目的の図書室へ辿り着き、貸し出しカウンターに座っていた図書委員に返却手続きを申し出る。
        校舎内の図書室は、蔵書が膨大になった事により2箇所に分割されたばかりで、
        訪れた場所は比較的古い蔵書を取り扱っているため、未だ整理が追い付いていない。
        所蔵年月日、貸し出し履歴等の情報を読み取るバーコード処理がされていないものがほとんどである。
        本の末頁に差込まれた、縦長の図書カードに記入するという古典的な貸し出し方法で
        返却日を押印され、手続きを済ませる。今日は本棚を物色する時間もない。
        部活の開始時間に遅れぬよう図書室を出たところで、黒子はいよいよ身体の不調を隠せなくなってきた。

        広い校舎のいくつもの角を折れているうちに、不快な味の生唾を飲み込む回数が多くなっていく。
        雨天の湿気は、こんなにも身体に圧しかかり、重くするものだろうか。
        夏を待ち侘びる気配に蒸せ返る、汗ばんだ身体。
        雨に濡れた昇降口のアスファルトの匂い。
        窓を叩く雨粒の音。
        滑り落ちる水滴の上、不鮮明に映る窓枠の景色。
        黒子が体感している何もかもが、フラッシュバックしてしまう。
        先週末の出来事と、多くのものが重なっていく。

        本当は、本の返却日にはまだ余裕があった。
        本日中に返さなくてはならない訳ではなかった。時間に余裕のある日に立ち寄れば良かった。
        けれど黒子の足は直接、部室に向こうとしなかった。
        どうしても会いたい相手を探しているのか、どうしても会いたくない相手から逃げているのか。
        目的はすっかり曖昧になっている。
        どちらにも当てはまるような不安定な心情に襲われている己を、黒子は自覚していて、
        その理由も明確だった。

        部室に向かう最後の角を、俯きがちに曲がったせいで、出会い頭に誰かとぶつかる。
        謝罪の言葉をかけようとその人物を見上げれば、緑間だった。


        「どこへ行っていた。」
        運動着に着替えていた緑間は眉根をひそめていて、身長差のままに鋭い角度から見下ろしてきた。
        よほど不機嫌なのか、低く唸るような声色で尋ねてくる。
        「本を返しに。」
        「・・・・・・来た方向が全然違うようだが。」
        「第2図書室に用があったんで。」
        返答に納得いかない様子で、眼鏡の縁を直す緑間の視線は黒子から外れない。
        「まあいい、行くぞ。」
        どこに、と問う間もなく、緑間は黒子の腕を引いて、部室とは違う方向に進んでいった。
        強引に、ほとんど引き摺られるように歩いていく。
        無意識に歩調が速くなっている緑間に、最後の方には抱き支えられるようにして保健室に連れられ、
        利用者のいないベッドに押し込まれた。
        「体調不良だと伝えておく、大人しく寝ていろ。」
        「・・・別に平気ですけど。」
        「人に倒れこんでおいて言う台詞か。顔色が悪過ぎるだろう。」

        入れ替わりで戻ってきた保険医に患者がいることを言伝て、
        「部活が終わったら、迎えに来る。」
        黒子との会話は簡潔に済ませ、すぐに出て行ってしまった。
        仏頂面が崩れない緑間の表情は固く厳しく、終始分かり難い。
        迷惑をかけてしまった形になったが、それでも、少しは心配してくれていたのだろうか。

        保険医に与えられた体温計は微熱を示したため、やはり安静に休むようにとの診断を受けた。
        依然、外の雨は止む気配もない。
        再び部屋を出て行った医師にひとり残され、窓に流れ落ちる雨粒の音だけが部屋に響いていた。
        白く柔らかなベッドの上でようやく安息を得た黒子は、制服をゆるく着崩し、
        乾いたシーツの感触に心地よさを感じながら、その中に大人しく潜り込むことにした。