発火点 







        見知った図書委員の女生徒が、昼の閉館を言い渡すのと同時に、黒子は図書室を出た。
        昼休みの時間潰しに、廊下に掲示された新刊図書の案内を眺めていると、
        「黒子っち。」
        ただ一人にしか呼ばれない愛称で呼び止められた。

        俯きがちで少し待ちくたびれた様子の黄瀬は、日陰の窓際を背にしてもたれかかっている。
        特別に約束などしていないが、おそらく黒子が図書室にいる間、中に入らずに待っていたのだろう。
        半分だけ開けられた窓から吹く風が、互いの前髪を小さく揺らす。
        夏型の大きな黒揚羽が、黄瀬の背後からひらひらと緑の植栽の隙間をくぐって飛んでいくのが見えた。

        気付けば近くで、図書室の施錠を終えた女生徒がじいっと、涼む黄瀬の顔面を眺めていて
        その視線の意味するものに慣れている様子の黄瀬が、ふと目を合わせれば
        扉近くに佇んでいた彼女は黒子に別れの言葉を告げ、慌てて走り去っていってしまう。
        「・・・・・仲良いの?」
        「当番の日にたまに本を借りているだけです。」
        黄瀬は一人になった黒子へ近付いてきて、進行方向を同じにしてゆったりと歩き出す。
        「他の子と親しげに喋ってると、桃っちがヤキモチ焼くっスよ。」
        「桃井さんは青峰くんの事が好きでしょう。」
        「そっか、なら安心だ。」
        何が安心なのか疑問に思ったが黒子は聞かなかったふりをした。

        「キミは顔の造作が綺麗だから、人からの明け透けな視線も慣れてるんでしょうけど。」
        いつもそんな罪作りな呈でふらふらと出歩いているのか、と黒子が非難する前に
        「カッコいいと思ってくれてるなら、もっと近付いてもいいっスよ。」
        見当違いの軽口で、ひらりかわされる。
        「・・・・・言う相手と性別を間違えてませんか。」
        「黒子っちに関しては、別に間違ってないと思うけどね。」

        ああ、また。と答えに窮した黒子は、何も聞かなかったふりをした。

        最初は単に人より感情表現が大げさなのだろうと考えていた。
        自分の反応が淡白であることは周りに言われて承知していたし、
        黄瀬が駄々をこねるようにして青峰に勝負を挑む姿も、クラスメイトの輪に飛び込んでいく姿も見ていた。
        物事を押し切る強引さが許されてしまうのは、彼の実力といつもにこやかで朗らかな性質、
        そして人好きのする整った顔立ちがあっての事だろうと思っていた。

        青峰と競うためだけに黒子のパスを多く欲しがる黄瀬だったが、その才能は確かなもので
        羨望や嫉妬を跳ね除け、帝光バスケ部レギュラーまで上り詰めた。
        バスケで黄瀬に対する時の青峰は、一切手を抜いていないように思える。
        緑間は黄瀬の加入によって変化する運勢をよんでいた。
        紫原はあまり興味なさそうに新作の駄菓子を選んでいて、
        赤司は面白い手駒が揃ったと喜んでいるようだった。

        黄瀬の様子が変わってきたのはおそらく彼の教育係をはずれた頃からだ。
        ささいな会話に目を合わせればすぐさま反らされる。
        後ろ暗い事があるのか問いただしてみても明るく平たい笑顔で濁される。
        ときには、自分に都合良く強引で、黒子を苛立たせるようなことを言ってくることもあった。
        健全な強引さとは異なる意地悪な物言いに黒子が機嫌を悪くすれば、
        黄瀬もまた傷ついた様子でしばらくした後謝ってくる。
        同じような事が何度か続いたので、どうやらわざと憤るように仕向けているらしいとの予測が立った。
        言いたいことを全て飲み込み、自己完結してしまっている返事をすることも重なり
        益々何を考えているのか分からなくなった。

        先日など、謝罪とともに抱き込まれた時には、さすがにそれをする相手を間違えているだろうと
        先ほどと全く同じ事を思ってはいたものの、口に出せなかった。
        ごめん、と耳元で呟く黄瀬はひどく憔悴して見えたからだ。
        「こんなの、君らしくありませんよ。」
        いつもの元気な調子を取り戻して欲しくて、慰めるつもりで深い意味もなく頭を撫でた。
        「・・・・・俺らしいって、なんなんスか。」
        対する黄瀬が思いがけず切羽詰まった低い響きで囁いてきたので黒子は驚いたのだ。
        チームメイトとして気安い存在であった黄瀬が、何に思い悩んでいるのか。
        痛みを与え、跳ね返って来る痛みを浴びるような真似をするのか。
        経験のない黒子には知る手立てがない。


        「どこ、行くの。」
        図書室から人気のない廊下を連れ立って歩く黄瀬は、黙っていた黒子を覗き込むようにして見ていた。
        「これといって用はないです。」
        返事を聞いた黄瀬は足を止めた。
        「じゃあ、今から俺にちょっと付き合ってくれないスか?」
        振り返った黒子を正面に、わずかに首を傾け、真剣な面持ちで強請ってくる。
        いつもすぐに反らされてしまう眼差しは強く、今度は黒子だけを見つめて逃げていかなかった。
        後ろ向きの黒子に一歩近付き、掴んできた手の甲には、爪先がわずかに食い込み、拒否できない勢いを感じた。
        「次の授業始まるまであと少しですけど、間に合いますか。」
        「平気っス。」
        その返事は結局、間に合わないんじゃないだろうかと思ったが、
        わざわざ廊下で待っていた黄瀬にも大事な用事があるのだろうと承諾の返事をする。
        逃げない黄瀬の答えを知りたくて、あえて大人しく手を引かれるまま。
        黒子は目の前の、意志を秘めた背中を眺めながら歩き、空き教室へと誘い込まれた。