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             姫君 







        自宅から徒歩5分の場所にあるコンビニの店内は、冷え込んだ外気からすれば春のように暖かかった。
        街灯もまばらだった歩道に比べ、白く照らされた店内は一瞬目を細めてしまうほど眩しい。
        入口にあった買い物カゴを片手に、黄瀬は足を進める。深夜帯で客は少ない。
        窓際の棚から最新号の雑誌を取る際に、手の甲に血の滲んだ切り傷があるのを見つけた。
        傷は浅くすでに渇いていたが、気付いた途端ピリっとした痛みを感じてしまう。
        雑誌をカゴに入れると、本棚の向かいにある一角から小さな傷用の保護パッド゙を手に取る。
        ドラッグストアまで行けなくもないが、冬の寒空の下わざわざ遠出をする気はない。
        思い出したように隣に並んでた傷薬と、歯ブラシの近くにあった避妊具をカゴへ放り込む。
        自分に注視している女性二人組の露骨な視線には気づいていたが、急いでいたので知らぬ振りをした。
        会計を済ませて店外へ出ると雪がちらつきはじめている。
        傘は持っておらず、身体の芯まで届きそうな寒さに再び耐えなければならない。
        コンビニから道路を挟んで向かい側少し先にあるカフェレストランまで小走りし、
        テイクアウトで日替わりの野菜スープとサンドイッチを注文する。
        ベーコンエッグサンドとテリヤキサンドの2種は紙袋の中からでも香ばしい。
        板張りの店内を出てスープの冷めないうちに来た路を戻れば、通りがかった先程のコンビニの前で
        女性2人組に声をかけられる。店内で視線を寄越してきた姿形と重なった。
        「あの・・・黄瀬さん、ですよね?」
        軽く笑みを作って会釈をすると、そのうちの一人が一歩前に出る。
        「今流れてるCM、好きなんです。応援してます。」
        手袋を外して握手を求められれば抗えず、荷物をまとめて右手を差し出すと熱くやわらかな両手で握り返された。



        やわらかく、上気した肌の感触で思い出す。
        初めて女の子を抱いた後の、週明けの教室。
        ちらりとこちらの様子を伺うクラスメイトの女子たちはおろか、男子にまで伝播した噂話。
        帝光中時代、一般男子の平均よりも早く、1年年上の先輩に誘われる形でセックスに及んだ。
        優越感を得た女子の口は軽い。手で触れた順序からどうのこうのという所作までバレているのだから、
        男子の下ネタよりも女子の下ネタの方が実はエグいのだと、
        黄瀬は直接には話しかけてこないクラスメイトたちの好奇な視線を浴びて思い知った。
        浮ついていた心の内はすっかり醒めてしまう。
        愛らしいなと思って初めて身体を重ねた相手に、一気に幻滅してしまうには十分だった。
        彼女の部屋で、合宿場所の離れのトイレで、委員会の後カーテンに隠れて、
        キスしていたらしい、衣服が乱れていたらしい、避妊しなかったらしい。
        本人以外に真相を知るはずもない半分以上でたらめな噂も広がっていたのにはうんざりし、肯定も否定もしないうちに
        続けて誰彼も卒業したらしい、あの子は大学生の彼氏がいるらしい、と新鮮な対象へ話題が移りすぐに治まった。

        それは試験休みに入る前の、最後の部活日だった。
        黄瀬が体育館で居合わせた小さな背中を叩いた時、その肩先は一目で分かるほど大きく震えて強張った。
        ハッと振り返り、斜めから黄瀬を見上げた黒子の表情はかたく、いつもより顔色が悪い。
        感情を露わにしない相手の、はっきりとした困惑を感じ取る。声をかけようとして言葉が続かなかった。
        「・・・・・・どうしました?」
        それでも黒子のつとめて装う冷静な声に、黄瀬はドキリとして初めて、「間違えた。」と思った。

        その時手に伝わった震えは、いつでもリアルに思い出せる。
        黄瀬の素行はけして学内で名前の知れ渡ることのない一生徒である黒子の耳にも入ったのだろう。
        性的に乗り気な態度を見せたことがない彼は、発育のいいマネージャーに抱きつかれても淡白で、
        表情の変化に乏しく自分を崩すことがなかった。
        けれども身近で、部活でも良く知った仲の黄瀬自身が下世話な想像には繋がらなかったのだろう。
        一線を越えて遠くへ行ったつもりは特別なかったけれど、人からすれば置いて行かれた気がするのだろうか。
        気にする風にはとても思えなかった。けれど黒子がショックを受ける理由が他に思い当らなかった。
        普段通りに話すことができたのは結局試験を終えてからで、その時黄瀬は心の底から安堵したのだ。

        一度だけ、黒子が手にしていた文庫本をめくって覗いたページに性描写があり冷かしたことがある。
        隣国の王族へ嫁ぐ日を控えた皇女の元へ、恋焦がれていた自国の騎士が密通してしまう。
        史実を絡めたファンタジーのワンシーンだった。
        彼女はその事実を誰にも漏らさぬまま婚姻しのちに子を産むが、夫には全く似ていない男の子だった。
        それは物語上で重要な設定なのだと、軽くかわされる。
        「・・・黒子っちも、こんなの読むんスね。」
        「好きな作家なんです。版元が変わっていつもとは作風が違うんですけど、それも新鮮で。」
        「でも昼ドラみたいにドロドロしてるっぽいのは、・・・ちょっと意外かな、と。」
        「前半は確かに女性が好みそうな王宮譚ですけど、子どもが成長して主役になってからが結構燃えるんです。」
        場所柄関係なく読書している黒子を傍らで見ているのが好きだった。



        別々の高校に進学して再会した彼の、黄瀬に対しての態度は変わらなかったように見えたけれど
        やはり今までとは少し違っていて、違っていたのは黄瀬だった。
        黄瀬は自分の見目、整った顔立ちが世の中で有利に働いていることを十分知っている。
        性欲盛んな年頃の男子だという部分を晒してしまっても、女の子たちの反応は悪くならなかった。
        それどころか目が合えば好意の笑みを返される、積極的なアピールを受けることもある。
        男子生徒に対して時に若い教員に対してまで、どんな仕草で表情で振る舞えば一番魅力的な女の子に見えるのか。
        探り合い競争している敵だらけの日々を、彼女たちはすべすべした手足と発達途上の胸のうちに隠している。
        自分を磨き立てるのが大好きな女の子たちの中でも抜群に容姿が良い類の、
        黄瀬と対等であろうとする少女が近づいてくる。
        そんな時は決まって、肩を震わせよそよそしく振り向いた黒子の姿を思い出す。

        いつまでも忘れることがないあの肩越しの動揺を思い出すだけで、どんな成年指定より興奮させられる。
        最初はいたずらに可愛いと思った、そのうちに気持ちが弾けた。
        自分と同じ構造をした相手とひとつになれないと分かっている。実りのない相手だ。けれど物足りないことなどない。
        震えが伝わった手のひらが自分の性器を揺らすことを想像すれば、自慰行為は何故か濃密なものになった。
        彼の心の内に誰も踏み込ませたくないと思い、誰よりも彼に深く入り込みたいと思い、
        こんな不純な気持ちを誰にも知られてはいけないと思う。押し寄せる想いは苦しいばかりだった。

        演出上手でわざと隙を見せてきたりする、けれどそんなはしたない事を絶対に気取らせない花れんな女生徒は
        きっとあの困惑顔の対極にいる。愛されるのが当たり前のその存在を望み通り滅茶苦茶にしたい気分になった。
        心の内で乱れていたとはいえ、覚えたての快感に対し健全な身体は正直だ。
        セックスなんて本当は場所さえあればいいのだけれど、彼女たちには理由がいるらしい。
        だから「好きだよ。」と毎回囁いた。



        事務所が借り上げている一人暮らしのマンションへ戻る。
        静まり返った夜の廊下に騒音を立てないよう、鍵を開ける。薄く開いたドアの隙間からかすかに話し声が聞こえた。
        「・・・・・・気、・・・いるから。」
        「・・・より・・・い風邪、で・・・、声・・・・らくて。」
        途切れがちに聞こえる声は、喉が壊れている。
        「・・・行くから、・・・じゃあ。」
        暗いままの寝室へ黄瀬が足音を立てて近寄れば会話は途切れた。
        部屋を出る際には疲れて眠ってしまっていた黒子が、自分の手荷物から携帯電話だけを取り出し耳にあてている。
        うつ伏せた身体に被せた薄手の毛布に細い腰のラインが浮き出ている。起き上がることは出来ない。
        「電話、誰?」
        「・・・帰らないってハナシを、ウチに。」
        「大学入ってもいちいち連絡しなきゃいけないの?」
        「いつもは・・・大丈夫です、だけど今日はちょっと・・・。」
        黒子はかすれた声で言葉尻を濁した。
        自宅から通える大学へ進学した事は知っていたが、そんなに口煩い家庭ではなかったはずだ。
        帰れないのでなく帰らない。と説明していたことが内心嬉しかったので、気にしないことにした。
        ベッド脇に腰掛けて様子を伺う。
        「ちょっと買ってきたんだけど、スープなら飲める?」
        「・・・・・お腹は空いてます、」
        「喉渇いてるならお茶もあるし・・・、でも寒いからホットのがいいっスよね。」
        話しかけた相手は毛布にくるまって出て来られない。
        黄瀬は隠れていた黒子の頬をそっと撫で、キッチンへと向かった。



        今朝、連絡がきていきなり住居を訪ねてきた黒子には驚いた。
        高校は違っても試合会場で顔を合わせることはあったが、部活を引退し卒業してからは少し疎遠になっていた。
        用事を終わらせていた黄瀬は快く部屋へ招き、話を聞く。
        毎年この季節になると思い出してしまう記憶を、清算しに来たのだと黒子は言った。
        覚えていないと思いますが・・・、そう切り出した話を聞けば心当たりがあり過ぎた。
        黄瀬こそ忘れられない、黒子が明らかに戸惑っていたあの出来事の日だった。
        「あの日、ちょうど僕の誕生日だったんです。」
        「え・・・。」
        「それとキミの事、好きでした。」
        絶句して息を飲んだ。
        黄瀬が女の子を抱いたという真っ当な本能の結果は、意図せず黒子を突き放してしまっていた。
        きっと一番聞きたくない類の話だったはずだ。誕生日おめでとうの言葉に染みついたのは、淡い失恋の記憶。
        毎年その日が来るたびに割り込んできてしまう苦い思い出になっていたのだろう。
        「キミの言う『一番仲が良かった』僕は、キミのことが好きだった僕なので、あれからフツーに努めてたんですよ。」
        困ったように笑う黒子は、あれが恋だと知らなかった自分も悪かったのだ言った。
        テーブルを挟んで話す少し大人っぽい顔つきになっている黒子の姿に、時の流れを感じて黄瀬は泣きそうになった。

        話すだけ話して気分が晴れたと言う黒子は、そろそろおいとまします。と帰宅の挨拶をし、
        ショルダーバッグを提げて玄関へつながる廊下へ進もうとする。
        「もう大丈夫です、どうもありがとうございました。」
        「あの・・・、」
        「きちんと話せたので、スッキリしました。」
        何故か慌てて出ていこうとするその後ろ姿に、
        「今、付き合ってる人、いたりする!?」
        引き止めようと焦って叫べば、玄関へ先立った背中が固まった。
        あの時と同じなら、弱った所など無理やり隠そうとしているはずだった。
        「俺は今、付き合ってる人はいないんだけど!・・・じゃなくて、」
        胃がせり上がって気持ちが悪かった。今すぐ全て吐き出したい衝動に駆られた。
        「あの時は気づけなかったけど、もうずっと前から、その・・・」
        「本当は、ずっと好きだった・・・んだけど、」
        飛び出したのはひどく陳腐で、端的な言葉。
        違う相手にもう何度囁いたか分からない使用頻度の高い言葉で、この期に及んで口説くのか。
        「俺のこと、好きだって言ってくれたのはもう・・・、過去のこと・・・?」
        図々しいのは分かっていたが、二度と離したくない気持ちの方が強かった。
        「本当にもう・・・過去のことなら、今すぐ出てってくれていい。」
        「だけどもしこのまま、俺が玄関に追いつく間に出ていかないんだったら」
        「・・・・・・、今すぐ黒子っちが欲しい。」
        立ち止まっている黒子が飛び出していかないのを確認し、一歩二歩、距離を詰める。
        三歩、四歩、まだ動かない。・・・五歩、六歩、七歩、・・・八歩、







        キッチンに立った黄瀬は湯を沸かしながら、レジ袋から品物を取り出す。
        手の甲で固まっていた血を冷水で洗い流してから、切り傷に保護パッドを貼る。
        抱いている時には気づく余裕すらなかったが、おそらく黒子にやられたひっかき傷だ。
        改めて思い返すのは黒子の肌の滑りの良さとぬくもりだった。
        初めてじゃないのは感触で分かった。
        誰と、誰に、と詰問する資格が黄瀬にはない。
        問い詰めるかわりにこれまで肉体関係のあった人物の名を順番に言ってください、と要求されれば
        愛想を尽かされかねない。そんな取引を試す勇気はない。
        眠っていた黒子には申し訳なかったが少し頭を冷やそうと思い、先刻わざと買い物へ出かけたのだ。

        日付が変わる頃に、遅い夕食をとる。
        「今日僕の誕生日だったんです。」
        スープ皿に匙を置いて、黒子がつぶやいた。
        「・・・そっか、さすがに日付までは覚えてなかった。・・・ごめん。」
        「よく忘れられるので、構いませんよ。」
        黄瀬が貸したカーディガンを羽織った黒子は、胸元の生地を指で整えた。
        「今夜は家族で予定があったんですが・・・キミと居たかったので電話で嘘つきました。」
        「・・・・・・誕生日、おめでとう。」
        「ありがとうございます。」
        ずいぶんと遅れてやってきた答え合わせに、黒子は誰かに抱かれたことがあるという事実を突きつけられた。
        けれどあの時間違えたからこそ、黒子を欲しがる気持ちが強烈に残っていた。完全に不正解とも言い難い。
        一月最後の日が来るたび毎年、黄瀬は今日の痛みと喜びをないまぜにした気持ちを思い出すのだろう。
        「・・・そんな大事な日に俺は酷いことしてばっかなんスけど、あの・・・、平気・・・?」
        遠回しに問えば、黒子がかすかに照れ笑う。涼しげな目尻に疲労を残している。
        焦がれた相手が見せてくれた顔に心揺れる、絶対に忘れることの出来ない日付になった。



        黒子が休んでいたベッドに再び潜り込んだその夜、黄瀬は昔の夢を見た。
        在学中、傍らで読書している黒子のことが好きだった。
        「この登場人物は、どこかキミっぽいですね。」
        そう言われ手渡された文庫を徒然にめくってみる。挿絵はない。
        「どれ、」
        指で示されたのは、件の隣国の王族だった。
        「王子様みたいって言われ慣れてるキミに、ぴったりじゃありません?」
        「・・・お手付きなお姫様を知らないまま娶らされるって、酷すぎないスか?」
        「ぴったりでしょう。」
        やはり酷いことを言う。
        「ハッピーエンドがいい。・・・あとお姫様ならできれば処女がいい。」
        「・・・・・・キミが言えた科白ですか。」
        黒子は腹を立てたようだった。
        「まだ読んでる途中ですが、彼女は夫に寄り添いその治世は栄えます・・・幸せそうに見えますよ。」
        「うーん・・・、じゃあ何も言わず信じてあげるのが深い愛っスかね・・・。」
        大口を叩いたあの話の結末を聞かされてはいない。