誰よりも君を 







        世間は人の間違いにはとても厳しい。
        それが注目される対象であればあるほど、人は常に疑惑と中傷の種を拾おうとするものだ。
        表立ってモデル業を続けている黄瀬と、普段からあまり目立たない扱いをされがちな黒子との付き合いが、
        いつか悪趣味な詮索によって明るみに出ることもあるだろう。
        二人の付き合い方はやはり自然の摂理から考えれば実りのない、間違っていると指し示される事項かもしれない。
        真剣なお付き合いをしています、と有り体の台詞で万人を納得させることは不可能だ。
        それならば、誰に何を言われようとも自分に自信を持って立っていられる強い人間になりたいと黒子は思うようになった。
        だから今は自分がすべき、精一杯の事をする。
        想像以上に宿題が積るのも、課題の発表で慣れぬ注目を浴びるのも構わない。
        誰かに認められるためでなく、引け目なく堂々としていたいから。しっかりと自立した大人になろうと心に決めている。

        大学入学と同時に一人暮らしを始めた黒子は、学校のすぐ近くに部屋を借りて住んでいる。
        黄瀬のところを訪れたのは、突然の休講で昼以降の予定が空いてしまったからだ。
        構内のピアノ室には空きがあったが集中力のいる作業に気乗りせず、敷地内の図書館も気に入りの場所だったが
        資料を探しながら取り組まなければならない類の課題は出ていなかった。
        自室へ戻り、再び出かける前に軽く掃除をしながら聞き流していたテレビからは、よく知った声が聞こえてくる。
        すっきりと歯切れの良い声色でCMを印象づけていたのは黄瀬だった。
        黒子は未だに黄瀬の仕事内容を詳しく知らない。中学、高校と事務所を変わらず雑誌に出るような仕事をしていたものの、
        周囲に騒がれるほどの活躍を見せながら、あれでも学業というより部活動を優先していたらしい。
        当然ながらバスケでも注目されていた黄瀬は、高校の時に名の知れたスポーツブランドのイメージモデルに起用された。
        若年層向けのラインだったが、カタログの表紙を飾る仕事をしたその名前と顔は一部の女性人気だけに留まらず
        多くの人から認知されるようになった。以降CM契約もいくつか交わしており、不意打ちで黒子はその姿をよく目にする。
        次の改編期から始まるドラマの出演も実は決まっているのだと、本人からでなく彼のマネージャーから聞いていた。



        訪れた黄瀬の部屋でいつの間にか寝就いていた黒子は、人の気配を察し目覚めた。
        眩しい午後の陽射しに顔を上げると、傍らに座って雑誌をめくっていた黄瀬と目が合う。
        「お邪魔してます。」
        黒子がそう口に出せば、黄瀬は一瞬傷ついたような苦い顔をした。
        「……うん、いらっしゃい。」
        まだ完全に覚醒していなかった黒子は、眠い目をこすり顔をしかめる。
        「なんだか……疲れてません?仕事、忙しいんですか。」
        「今日はもうオフだから、ゆっくりできるよ。」
        意図的に答えを避けた黄瀬は、机上のグラスに注いであった清涼水を飲み干す。
        ほとんど溶けて小さくなった氷が一緒に流し込まれていくのをぼんやりと見ていて、黒子は喉の渇きを覚えた。
        「……寝汗かいてる。陽に当たってたからやっぱり暑かったんスね。」
        横顔へ向けた視線を感じたのか、黄瀬は黒子の方へ手を伸ばし前髪を造作なく分けて額に触れてきた。
        手の甲は額から頬にすべり、長い指先が顔の輪郭を撫でてくる。体温は確かに黒子の方が高い。
        「連絡入れれば良かった。寝汚くするつもり、なかったんですけど。」
        「なに、」
        「……帰ってきてるの、気付かなくてスミマセン。」
        くすぐったい感触に負けじと言い終えたところで、黄瀬が近付き口づけが降りてきた。
        控えめに重ねられた唇と舌先には水分が残っている。
        さっきからずっと何かを飲みたかった黒子は、今度は口汚く欲しがってしまう衝動をなんとか堪える。
        短く終わったキスの余韻もそこそこに、用意されていたガラスポットの飲み物を空いたグラスに注ぎ口にした。
        「宿題はまだかかりそう?」
        一口、二口と満足するまで喉を潤すのを待って、黄瀬に問いかけられた。
        「これは、提出はまだ先なんで。急いで済ませなくても平気です。」
        「じゃあ買い出しに付き合ってくれないスか。冷蔵庫、ほとんど空になっちゃって。」
        「……多くなければ僕が買ってきますけど。昼間からあまり出歩かない方がいいんじゃないですか?」
        ここへ来る時に降り立った最寄駅は、平日に関わらず込み合っていた。
        駅前は乗降客との待ち合わせやビジネスマンの往来が大多数で、黒子の住む学生街周辺とは異なる洒落た街並みがある。
        「嫌だよ、せっかくいい天気なのに。そんなに心配いらないって。昼食も外で食べよう。」
        「駅の方は人通り多かったですよ、新しいビル出来たばかりでしたっけ。」
        「じゃあメガネかけるし、普通に歩いてれば誰も気にしないよ。」
        「キミは背格好だって十分に目を惹きます、帽子も被ってください。」
        「……とりあえず、タクシー呼ぶから。」
        黒子は最初から時間潰しのつもりだった課題の後片付けをし、黄瀬は冷蔵庫の中身を確認して携帯を取った。



        当時も今でも、黄瀬は何をやっても人並以上に上手くこなせてしまう器用さで、明らかに特別な人間だ。
        恵まれた長身と整った顔立ち。熟練者の動きを見て、すぐにそれ以上の技術を手繰り寄せられる勘の良さ。
        外向的な性格で調子よく、相手の優劣を判断して身の置き方を変えるずる賢さもあるのに面倒なことにはならない。
        無理なく奔放な身のこなしを、中学時代から羨ましく思っていた。

        黄瀬から突然の告白を受けた時、それこそ発情の対象を間違っている様子に呆れたものの強引なキスに翻弄された。
        いつからか妙に焦れた目をしていることには気づいていたが、
        それが自分宛てに恋心を寄せる合図だったのだと。その時納得した。
        これほど人を好きになった事はないと告げられた、自分から告白をした事もない、まして同性を相手にするなど。
        逃げられぬよう抱かれ、唇を被せられた。
        事に及んだきっかけは黒子が何気なしに放った皮肉のせいだったが、振り返ってみても二人に恋の駆け引きなど無かったに等しい。
        常に取り囲んでくる女生徒を上手く相手にしていた男のやり方ではなかった。
        最初から甘ったるいキスを強要し、手つかずの身体を触れられた黒子がいち早く反応するよう仕向けたのは黄瀬のしわざだ。
        快感を無理やり引きずりだされた当時はたまったものではなかったが、肌慣れし、力を抜くことを教えられ身震いした。
        余裕も自覚もなく不安がり、黒子を手放したくないという気持ちはぶつけられた唇からも伝わった。
        模倣が得意な黄瀬から向けられたのは前例がない激しい想いだ。誰のやり方にも頼れない分、人一倍弱く必死で危うい。
        黒子だけに見せた、格好のつかない本当の姿だった。

        もしも黄瀬を煽るようなきっかけがないまま、黄瀬の感情を傷つけてしまうような事があったならば、
        離れ離れでいる二人にはまた違った展開が待っていたのだろうかと、想像すれば薄ら寒い思いもある。
        嫌いになれればそこで終わりだったが、人の弱さを愛しく思ったのは黒子の方こそ初めての経験だった。
        暗示をかけられるようなひたむきな言葉と、我を通した態度に懐柔された黒子は相変わらず黄瀬一人しか知らないままだが、
        熱心に想いの丈を伝えられ、ここまで付き合ってこられた事は感謝している。
        相手からの好意に酔うばかりでなく、想い想われる大切な感情にたどり着くことが出来たから。

        今でも時折りひどく不安定になっている黄瀬が、自分だけに見せる憂いも迷いも丸ごと受け止めたいのだ。
        一人ではなく、二人で歩けることを信じてほしい。黒子もまた二人の未来を一途に見つめていた。