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             誰よりも君を 







        早朝、黄瀬は眠りの浅い時間帯に聞こえたかすかな物音に気付き、目を覚ました。
        自室のベッドから薄目を開けて見渡す室内はうっすらと青く白んでいるように見える。
        肌に馴染んだ夏掛け布団の中、気だるさと心地よさの狭間でうつらうつらしていると視界の中で動くものがあった。
        ベッドの上からの風景に黒子の裸の背筋が映る。
        朝風呂に入ったのか、濡れ髪にタオルを被ったままベッド脇に腰掛けてこちらに背を向け、
        足元で皺くちゃになっていた衣服を広げているようだ。
        「……もう起きたの、早いね。」
        黄瀬が起きぬけの低い声で問いかけると、黒子はすぐに振り向いた。
        「スミマセン、起こしちゃいましたか。」
        黒子の方こそかすれた声の返事だった。本人もそれに気付いたのか、言ってから軽く咳払いをする。
        「いいよ、……久しぶりにぐっすり眠れたから。」
        「シャワー、お借りしました。タオル類は洗濯機に入れておいたんですけど良かったですか。」
        「うん、溜まってた分も今日洗う。」
        すでに夜明けは来ており、カーテン越しに差し込む空の色はまだ薄かったが、快晴の朝の装いだ。
        「一旦家に帰ります、始発も動いてる時間ですし。」
        「……もう?まだ、いいんじゃないスか。」
        ベッドの中から上半身だけ起き上がった黄瀬は、水滴の残る黒子の肩口を背後から抱きしめ、引き止めにかかる。
        裸で眠っていたため、寝具から抜け出して直接感じる朝の気温は少し冷えていた。
        しかし黒子の湯上りの身体はまだ温かく、人肌のぬくもりに名残惜しさがなお募る。
        「授業の準備してこなかったんで、必修だし早めに帰らないとダメです。」
        甘ったれた黄瀬の仕草に対し黒子は素っ気ない返事をしたが、回された腕を引き剥がしはしなかった。
        「ねぇ……、もっかいだけ。」
        強引にベッドに押し倒して横抱きにし、わざと熱っぽい声色でねだるのに
        天井を仰いで前髪を浮かせた黒子はなびいたりせず、被さった黄瀬の身体を押し戻そうとした。
        差し迫った時間の許す限り抱きしめていたいが、別れ際の物わかりの良すぎる黒子はまるで許してくれない。
        躍起になった黄瀬の指先が、黒子の薄い胸の上で確かな意図を持って動き出した時にはさすがに
        身をよじって抵抗された。しかし黒子の戸惑いの眼差しに吸い寄せられてそのまま口付けを深くしてしまう。
        昨晩あれほど繰り返したキスを忘れてしまったわけではない。目の前にいる相手を構いたい欲望には際限がない。
        どんなに飽食で密な時間を過ごしたって、すぐに補給しなければならないのは困りものだ。
        「……僕はもう着替えて出ますから。黄瀬くんはお休みの日ぐらいしっかり休んでください。」
        黄瀬の腕から逃れて起き上がった黒子は、よれてしまった昨日の衣服を足元から拾い手足を通した。
        「ちょっと待って、そこに紙袋が入ってるんだけど。」
        相手の体温を未練がましく思いながらクローゼットを指し示せば、黒子は何事かと壁面の収納スペースへ歩み寄っていく。
        折り戸を開けてすぐ足元の紙袋には、黒子宛ての衣類が入っていた。
        「いかにも朝帰りっぽいの、抵抗あるって言ってたっスよね。俺の見立てだけど、良かったら。」
        仕事中、撮影に用意されてはいたが結局使われなかった衣装の中で、黒子の肌色に合いそうだと思ったものを
        別サイズで数点取り寄せてもらっていた。それだけでは季節が早いので仲の良いスタイリストと出かけた時にも
        自分が着るテイストとは違うものを、見初めてつい買ってしまったものがいくつか入っている。
        清潔感のあるシンプルな出で立ちを好むことはよく知っている、大きくは外してはいないつもりだ。
        しかし肝心の黒子はタグがついたままの夏服を取り出したきり無言でいて、黄瀬の不安を煽った。
        「趣味じゃなかったら受け取らなくてもいいから。俺好みの服着せて、着せ替え人形したいっていうわけでもなくて、」
        「……少しくたびれた服で帰るくらい平気です、そのまま大学に行くのは嫌ですけど。
         それにお土産だっていつも貰ってるのに悪いです。」
        黒子は素直に喜ばなかったが、黄瀬も引き下がらない。
        「ほぼこっちの都合でウチにきてもらって、時間ギリギリまで引き止めてる自覚あるから。だからせめてこれぐらい、」
        させてほしい。恋人である以上服を脱がせることはしたいけど、襟の折れたシャツで帰したくはない。これはただのエゴだ。
        最近では二人で外出もできていない、ロケに取材に撮影にと黄瀬の仕事に土日はない。
        モデルから俳優へというのがお決まりコースの昨今の業界において、
        学生時代はそれなりにセーブしていた黄瀬の仕事の幅は予想外の速さで広がっている。
        この仕事は水物だ。プライベートの時間が取れないという理由で、勢いを塞き止めるわけにはいかない。
        近頃は事務所が企画協力の深夜ドラマの出演も決まり、夜遅くまで打ち合わせや取材が入ることが多くなった。
        またCM撮影の打ち上げや付き合いを兼ねた外食も増え、時間は昼夜反転している。
        会いたい時には就寝時間などとうに過ぎた夜中だ。
        大学生となり新たな進路を歩んでいる黒子に対し、睡眠を妨げるメールを入れることも遠慮がちになる。
        けれどどうしても会いたくて、人目を忍んで自分の部屋に招き入れるのが精一杯でも、突然の呼び出しに応じてくれる黒子には
        本当に感謝している。長く一緒にいられない恋人をどう思っているのかは怖くて聞けていない。

        言い訳じみていただろうか、黄瀬の言葉を聞いた黒子は新品の衣類を一通り取り出したが着替えはしなかった。
        「当たり前ですけど、僕よりもずっとセンスあると思います。サイズも全部、合ってます。」
        「それは、ね。」
        黄瀬は両手を開いて見せた。黒子の身体のサイズなど、全て手で測量済みだ。
        「……抜け目ないですよね、相変わらず。」
        自慢げな身振りに、黒子が小さく笑う。
        「けど今更気を遣わなくてもいいです。こんな良さそうなもの、僕じゃお返しできませんし。」
        「別にそんな大したものじゃないっスよ。お返しもいらない、学校行くときの普段着にしてくれていいし。」
        「黄瀬くんは……、」
        言いかけた黒子だったがふと壁時計を確認すると、慌てて身支度を整える。
        「……スミマセン!本当に時間ないので帰ります。ありがとうございます、お邪魔しました。」
        紙袋は受け取ってくれたが、結局は昨日の私服姿で黒子は出て行ってしまった。
        廊下を通り抜け、玄関の戸が締まる際には荒っぽい施錠音が聞こえた。
        見送る隙も与えられなかった黄瀬は未だベッドの上から一歩も動いていない。
        寝癖の浮いた髪の毛を掻き上げる。自分にすがりついてきた昨晩の黒子の姿を思い返せばたまらない。
        次に会えるのはいつだろう、会えばいつもずるずると抱き崩してしまうけれど、それを不満に思ったりしていないだろうか。
        黒子は何を言いかけただろう。話す時間が圧倒的に足りない。本当は朝でも昼でも可能な限り一緒にいたい。
        しかし一、二年次に比べて、学習に割く時間の多くなった黒子に我ままを通すわけにもいかない。
        話を聞く余裕もなく、去年にまして忙しそうに黄瀬の元から離れていってしまう強がりな背中を、今年は一度も捕まえられずにいる。



        同棲したいと考えていることをまだ伝えてはいなかった。
        現実的に考えて、今すぐ黄瀬の住むマンションへ越してくるのは不可能ではないと思う。
        黒子の通う大学のキャンパスはここから通っても電車で数駅乗った場所だ。
        大学近くの下宿先から自転車で通うよりは遠くなるが、互いに一人暮らしの生活より負担は減るだろう。
        家賃は取らないつもりだが、不平が生じるようなら今住んでいる部屋の半分でいい。
        まだ先の話だが勤務先が遠いようなら二人の希望が通る部屋を新しく探そう。
        相手を丸め込む言葉を念入りに考えているが、実際に口に出したことはない。
        大学の教育課程に進んだ黒子は幼稚園での実習を終え、レポートの提出に追われている様子だった。
        実習は来年に二回目がある、今回の反省点を活かすためにテキストと付箋紙をつけたノートを見遣っている姿は真剣だ。
        色鮮やかな表紙のノートを覗き込めば、普段は気にも留めないような雑草の名前とイラストが何十種類も丁寧に描かれている。
        園内で生息していた場所とともにそれを使ってどのような遊びが出来るかなど、細かく分類されてまとめられている。
        保育士資格も幼稚園教諭免許も同時に取得を目指している最中で、
        黄瀬の部屋で夕食を取りながら時折り聞かせてくれる話には未来への展望があふれていた。
        「授業で習うのと、実習中は大違いでした。知らない手遊びも色々教えてもらったんで、ノートにまとめておきたいし。
         実習に来てた他大学の人と交換した楽譜もあるんで、近いうちに緑間くんに見てもらいたいです。」
        ピアノが得意な中学時代のチームメイトは、今では黒子のピアノの師匠のようなものだ。
        違う大学に進学しているが、電車を乗り継げばそう遠くないキャンパスに通っている。自宅通いでおそらく大学院まで進むのだろう。
        学生時代にはあまり良好な仲には思えなかった二人だが、黒子相手に意外な面倒見の良さを発揮しているのは、
        年の離れた妹がいるからかもしれない。レッスンの際には、小学生になったその子の意見を聞く事もあるそうだ。
        「ねぇ、緑間っちのとこ習いに行くのやめない?譜面通りに弾くだけなら、たぶん俺にも出来るよ。
         弾くところを軽く見せてもらえれば、俺が教えてあげられるじゃん。」
        「……それはさすがに、キミをぶん殴りたくなると思うんで冗談でもヤメてください。」
        自分の知らないところで行われているピアノレッスンを羨んで出た軽口は、黒子を不機嫌にしてしまった。
        「なんで俺よりも先に家族ぐるみなんスか、あっちに取り込まれないでほしいのに。」
        少し面白くない思いがして黄瀬が不満を口にすれば、黒子は触れられたくない方面に話を持って行ってしまう。
        「緑間くんの妹さん、とっても可愛らしいんです。それに会えと言うなら、キミのお姉さんにも会いますよ。」
        「いや俺のとこには絶対会わせられないから。」
        黄瀬には姉が二人いるが、弟の恋人を前に醜聞を垂れ流されるのは目に見えている。
        時々約束もなしに訪ねてきて、終電を逃した際の宿替わりにされるのもほとんど嫌がらせだろう。
        あれは女とも男とも伝えていない未だ情報量の少ない黒子との鉢合せを狙っているのだ。
        いつか突然寝室にまで踏み込んで来そうで始末におえない。
        年功序列な黄瀬家に守秘義務はなく、聞かれるたびに恋人と順調そうなのを装ってしまうのも悪いのだが。

        凝りもせず緑間に同じことを言ってみたが、当然ながら反対された。
        「人の真似をする能力ばかり長けているお前に、即興演奏が出来るとは思えん。」
        「……喧嘩売ってんスか、」
        「喧嘩を売っているのはお前だ、馬鹿め。」
        電話越しの声は、すぐに苛立った口調で切り返してきた。
        「あれはただ技術を要する訓練じゃない、幼い感性をより刺激して表現力を引き出すための演奏だ。
         お前の能力など指練習ぐらいでしか役に立たないだろう。畑違いもいいところなのだよ。」
        「相変わらず俺には容赦ないっスね、人の物には親切丁寧に手出し口出ししてるくせに。」
        「……いい加減にしろ、気色悪いやっかみに巻き込まれるなどうんざりだ。お前が不特定多数に色目を使っている間に、
         わざわざお前の帰宅時間に合わせて礼を言って出ていくヤツに、さらに身勝手を訴えてどうする。」
        「それは……、」
        「知らない分野に首を突っ込んでかき回すのはよせ。そんな事をされれば誰だって腹が立つ。
         もう自分だけのフィールドがあるのだから模倣では済まないだろう。あらゆる方面で器用な自分を呪ってせいぜい苦しめ。」
        突き放す口調の緑間が混ぜて言うのは、俗なメディアへの露出が多くなった黄瀬に対する助言と苦言だろう。
        短い用件を終えると一方的に通話は切れる。
        黒子からも緑間からも呆れられ、思慮に欠けた冴えない自分を思い知らされただけだった。



        あくる日、午前だけの短い打ち合わせを終えた黄瀬が帰宅すると、玄関には黒子の靴が揃えて置かれていた。
        渡してある合鍵で入ったのだろう。
        留守の際には自由に使ってくれていいと言ってあるが、家主のいない部屋に勝手に上り込むのは黒子自身気が引けるらしく、
        雑に放ってあった上着や水場に浸けたままの洗い物が片付けられていたりする。律儀な所が変わらず愛しい。
        居場所を探してリビングに入ると、黒子は折り畳みのローテーブルに顔を伏せて昼寝をしていた。
        手元には持ち込んだ薄型PCと教本が開きっぱなしで、素通しの窓からの風にページが優しくめくられている。
        急な休講でもあったのか、近付いても目を覚ます気配はない。背中から西陽が差し込み、白い首筋を惜しみなく照らしていた。
        机上に晒されているのは、普段より少し幼い印象の澄んだ寝顔だ。
        PCの画面を覗きこむと文書作成の途中のようで、自動保存されているだろうが念のため上書きを施しておく。

        黒子が進もうとしている晴れやかな未来に、自分は共にいるのだろうか。黄瀬の雑念は尽きない。
        誰の手にも渡らぬよう、ひっそり囲ってしまえるのなら簡単だ。
        子どもの頃から周囲にのせられて仕事はこなしているおかげか、黒子一人養う財力はすでに持っている。
        大学卒業後は職には就かせず、二人の部屋へ帰った際にはいつでもおかえりなさいと言ってもらえるよう
        仕向ければ或いは、そばにいてほしいという願いは叶うだろうか。
        けれど今、黒子は持前の意志の強さで立派に歩き出している。甘い言葉で手懐け、独占する事は出来そうもない。
        そして黄瀬の方は、流されるがまま続けている特殊な仕事を捨てる勇気もないのに、
        将来の立ち位置はここでいいのかと近頃妙に焦っている。
        周りは皆ずっと先を見据えているように思えて、一人取り残されているようで落ち着かない。
        子どもでもないのに大人にも成れていない感覚で、他愛ない嫉妬をしては相手を苛立たせてしまう。
        こんな情けなさでは一緒に暮らしてほしいと切り出せるはずもないのに今日もまた、
        必ず隣に戻ってきてくれる目の前の無防備な姿に救われている。

        日当たりの良いこの部屋ですっかり気を許し、うたた寝している黒子を見つめ、黄瀬は強く願う。
        ずっと好きでいる君を心から幸せにしたい。形振り構ってはいられない。
        二人でいられるこの場所を、守りたいのだ。