秘密  







        人影もまばらな夕間暮れの中、黄瀬は黒子を待っていた。
        誠凛高校の通用門に寄りかかっていても、女生徒からの注目を浴びて騒ぎ立てられることもない時間帯。
        都心部に近い新設校の敷地はやや狭い。バスケ部の活動している体育館も行こうと思えばすぐに見つけられるが、
        他校に籍を置く自分が例え黒子目当てだとしても、偵察まがいに顔を出してしまうのは迷惑だろう。
        だからこうして湿った夜の空気を吸い込みながら、黒子の姿を見るその時を待ち侘びている。
        まだ文化部が活動しているらしい校舎からは、申しわけ程度に室内灯の明りがそそいでいた。



        全ての用事を済ませた黄瀬が黒子に会いに来て、黒子の方も黄瀬が待っていることを承知している。
        傍から見れば、進路の別れた友人との待ち合わせに過ぎないだろう。けれど黄瀬にとっては奇跡に近かった。
        中学二年の初めに知り合った頃から、今までずっと黒子のことが好きだったのだ。
        同性を好きになったのは初めてのことで、内心戸惑っている自分の気持ちを確認するように告白を繰り返した。
        「ねぇ黒子っち、暇なら俺と付き合ってほしいんだけど。」
        「今日中にこの本読み終えたいので、暇ではないです。明日でいいですか。」
        明日にはまた別の用事を作るくせに。そんな小言が、喉元でつっかえては消える。
        「好きだって言ってるんスよ。だから俺と付き合ってください。」
        黄瀬の言葉を聞いた黒子は手元の文庫本を閉じ、ため息をつく。
        「恋愛において一番不幸なのは、好きな人に嫌われる事じゃなく、嫌いな人に好かれる事だそうです。」
        「……まーた妙な本、読んだんスね。」
        「誰に対しても誠実でないキミのことは少し嫌いです。そんなキミに好きだと言われる僕は、少し不幸ですね。」
        ようするにお断りされたらしい。
        「そんな偏屈な知識より、実践が大事だって。俺だったら教えてあげられるのに。」
        「キミは言葉で口説くよりも身体で口説く方が得意なようなので。同性相手には通用しないでしょう。」
        「……そんな事ないよ。」
        苦笑しながら黒子の口元へ顔を近付ければ、本で軽くはたかれ降参する。
        この少年の、ただ一人の特別になるにはどうすればいいのだろう。それだけを想って深みにはまって抜け出せなくなっている。
        つれなく呟く唇に触れてみたい。物静かな少年の佇まいに劣情を抱かずにはいられない。
        その唇にえずくまで奥まで咥えさせて、良くできたね。って、苦しそうに上下する薄い胸を抱き寄せたい。
        けれど悪いことはできない、させられない。黄瀬の頭の中でだけ、黒子は従順で下卑た慰みものになる。
        いつも最悪なタイミングで近寄ってくるのは早熟な女の子たちばかりだ。
        じりじりと満たされない心の代わりに、つい持て余した身体の処理を取っ替え引っ替えお願いしているうちに、
        黄瀬の告白の真実味はどんどん薄れていく。
        黒子は完全に、自分はからかわれているのだという風にしか認識していないだろう。悪循環だった。

        中学三年の全中の決勝戦を境にいきなり部活に顔を出さなくなったのは黒子の方で、
        今までずっと顔を合わせていた体育館に黒子の姿がなくなった事に、黄瀬は内心誰よりもひどく動揺していた。
        黒子は一軍落ちしたわけではない、全中では圧倒的な強さで優勝し歴代最強チームであると称えられた。
        全てに勝利し、全てが順調で、そこで黒子が不満を持つ理由が分からなかった。
        正直言えば、体育館にはしんどい思い出が多い。
        死にたくなるほど辛い練習内容の日もあったし、青峰には打ち負かされてばかりでプライドをズタズタにされたし、
        まだ初心者に近かった自分にも容赦がない赤司の指示に、体力と気力を根こそぎ奪われた日もあった。
        けれど際限なく日に日に成長していく未知数な自分とチームメイトたちを直に感じられて、一番好きな場所でもあった。
        黒子だって同じではなかったか。バスケが好きで努力して、勝った時にはこれ以上にないほど嬉しい。
        勝つ事でどんな辛い練習も報われるなら、やはり勝つ事は正しい。
        黒子だけが違っていたならどうして何も言ってくれなかったのだろう。
        中学時代の充実した日々の詰まった場所が、黒子が自分からいなくなったという事件のあった日から
        一瞬にして色褪せて見えた。実力不足を思い知って逃げ出したのだと陰口を叩く補欠部員もいたが、
        共に試合に出ていたレギュラー陣はそれぞれ思うところがあったのだろう。
        姿を消した理由は不可解なままで、連れ戻しにいくチームメイトは一人もいなかった。
        だったら会いに行けば良かったのに、あれほどバスケが好きだった黒子からの強い拒絶を感じてどうしても出来ないまま
        黄瀬は黒子を見失い、心に大きな空白を抱えて独りになった。生殺しも同然だった。



        「あれ?お前、こんなとこで何してんだ?」
        黒子を待つ黄瀬に向かって声がかかる。
        昇降口から続く道を通り、上背のある人影がこちらへ近寄ってきていた。
        「あー…、目当てはアイツか。じきに来んじゃねーの。」
        嫌でも目立つ赤い髪と、ゆらゆらと肩を揺らし厳めしい風体で歩くのは火神に違いない。
        練習試合で見せ付けられた好戦的な眼力はかつてチームメイトだった男とよく似ているが、今は和らいでいる。
        「じゃあな。」
        「あ、火神っち。」
        帰路を急ぐ背中を、すれ違いざまに呼び止める。
        「なんだ、急いでんだよ。」
        振り返った火神はほとんど変わらない高さの鋭い視線を黄瀬へとぶつけてきた。
        機嫌が悪いわけではないだろうが友好的ではない。表向き、自分とは正反対な人物が今は黒子の一番近くにいる。
        黒子と再会を果たしたのは誠凛高校との練習試合が組まれた時で、居ても立ってもいられずに会いに行った。
        帝光バスケ部を拒絶してなお、バスケを離れたはずの黒子はやはりバスケ部に入ったらしいと聞いていたから
        練習試合を口実に一目会えればいいと思っていた。
        久しぶりの黒子はどこかすがすがしい顔つきをしていて、新設校のバスケ部に溶け込み、
        新しい場所で新しい同志たちとの生活を始めていた。進学先が別れて少し他人行儀になった会話が切なかったが、
        元チームメイトの自分へ向けて変わらぬ眼差しと態度で接してくれることにホッとした。
        しかも黒子が火神をとりわけ気に入っているのは確かで、彼と共にバスケをしたいから海常には行けない。と断られたのだ。
        離れていた間の黒子の心変わりが無性に悔しい。実力とは別の観点からも認められている火神の事が正直羨ましかった。
        「黒子っち、今日はいつも通りだった?」
        「……風邪っぽいだか何だかでどやされながら、休み休みデータ整理手伝ってたぜ。
         見てくれは別に普通だったから、そう心配する事もねぇだろうけど。」
        強い生命力を感じさせる雄々しい目元を細め、苦々しい表情をこちらへ寄こした火神は、
        黄瀬の質問に端的に答えてすぐその場を去っていった。

        火神が去った後も、続々と誠凛のバスケ部メンバーが下校の為に門を通過していく。
        「あっれー?キセキの黄瀬じゃん。久しぶり、っつか試合会場で見た以来か。」
        「海常からここまで何分ぐらいかかんの?神奈川からでもそんなには離れてないよね。」
        他校生の自分に対して、口々に飛び交う気さくな会話。
        「お疲れさまっス、乗り継ぎ楽なんで案外近いんスよ。」
        最上級生のいない誠凛バスケ部の上下関係は、中学時代のものと比較してずいぶんと親しげなものに感じる。
        「盛り上がってますね。」
        黒子は、並び立つチームメイトの影から姿を現した。
        半袖シャツの制服に着替えた部員が多い中、練習着の上からジャージを羽織っている。
        「やっと来た。こないだのゲームの続き、夕飯買って俺んちでやろうよ。」
        「キミが毎回同じところで詰まるからそろそろ飽きてきたんですけど。」
        「特訓してきたから今日こそ大丈夫っス。」
        「……誰かのプレイ見て来たんでしょう、今度はどなたのコピーですか。」
        眼鏡のキャプテンから声がかかる。
        「黒子、今日は体調良くなかったんだろ。
         明後日はみっちり練習だかんな、あんまり無理な夜遊びすんなよ。じゃあな。」
        そそくさと嫌味のない喧騒が過ぎ去り、通用門に二人だけが残される。
        先輩方を見送る笑みを貼り付けたままで黄瀬は、明るく穏やかな声の調子を少しだけ低くした。
        「具合は、」
        「……部活は出られました。」
        「まっすぐ帰ろっか。夕飯なら有り合わせのもので出来ると思うし。」
        大人しく頷いた黒子と共に連れ立って歩き出した。
        いつもより歩調の遅い黒子のペースに合わせて、生温い風の夜道を黄瀬の家へと向かっていく。



        黄瀬が黒子に告白したのは、そう過去の出来事ではない。
        「好きです、中学の頃から。俺と付き合ってください。」
        高校に入って顔を合わせてから数回と立たないうちに、黒子だけを見つめて懇願するように告げた。
        「過去形じゃ、ないんですか?」
        「まさか。顔合わせなかった時も今までずっとだよ。鞍替えできるなら、とっくにしてる。」
        「黄瀬くん、諦めの悪い人だったんですね。」
        「黒子っち限定だけどね。」
        「その言い草、今まで散々使ってきてませんか。」
        「……信用ないんスね。俺がこんな必死になる相手、他にいないって断言できるよ。
         付き合いのあった女の子たちも全部切ったから、……俺の事、まだ嫌い?」
        「いいえ、好きな人に好かれるのは悪くない気分です。」
        「好きな人って……、」
        「誠実なキミの事は好きですよ、昔から。」
        事もなげに告げてくる言葉を、黄瀬は苛立ち混じりに切り返す。
        「何それ。だったらあんなに敬遠しなくても良かったんじゃないスか?」
        「よりにもよって何で僕なのかと思っていたんです。
         部活で顔を合わせる頻度が高いから、多感な時期にふと近くにいる相手が目に付くこともあるかもしれない。
         女の子に不自由しないキミなら尚更、同性を相手にすることはきっと他にはない背徳感もある。」
        「冷静な分析してもらって悪いけど、俺が黒子っちに惹かれるのに理由なんてないよ。
         男女の差だって関係ない、性別なんてどうだっていいって思ってる。」
        黒子の方から好意を示す返事をくれたことはすごく嬉しい。けれど、何だか腑に落ちない。
        多少なりとも気にしていてくれたなら、あの時いなくならないで欲しかった。
        当時姿を消したことが二人の関係にどれほどの傷を残したのか黒子は知る由もないし、黄瀬本人だって把握しきれていない。
        「でもあの時は、僕に興味をもったキミに頷いてしまったら、つまみ食いに満足して
         すぐ終わりだろうと思っていました。ふらふらしてたの、身に覚えありますよね?」
        「俺も相当煮詰まってたから否定はしないっス。……ごめん。」
        「……やっぱり僕はキミの不器用なところも、とても好きですよ。」
        「不器用なんて、言われたことないんだけど。」
        「そうですか。じゃあ器用なんでしょう。」
        黄瀬の言及をさらりとかわす、余裕の見え隠れする黒子の姿に我慢ができず抱き締めて口付けた。
        重ねる角度を変えてキスに応えてくれる黒子が信じられず、急いて舌を刺し入れては短い呼吸を繰り返す。
        黄瀬はずっと、息をしながら息苦しさにもがいている。今もそうだ。
        黒子がいなくなってから出来た胸の内の空白をいっこうに埋められない。
        呼吸をし満たしたそばから空気の抜けていく深い傷が、塞ぐこともできずにそのままになっている。
        その大きく広い空間がどれほど奥まで続いているのか今更測りようがなかった。