ゆるやかに、成就  







        2人が並んで歩くことは、本来ありえないことなのだと気付いた。
        それから、2人が一緒にいることも、本来ならばありえないことなのだと、黒子は知った。



        ある日、偶然前を歩く黄瀬を発見して、背後から追いかけ、声をかけようとした事があった。
        けれど黄瀬の歩く速度は予想よりもずっと早く、人通りの多い街中の歩道を進んでいく。
        悠々と柔らかなフォームで、長い足の歩幅で、前を行く黄瀬になかなか追いつけない。
        黒子にとっては競歩にも勝るスピードで、前方を見据えまっすぐ。
        ほとんど膝を使わず、背筋もまっすぐ。
        颯爽と、黄瀬はとてもきれいに歩いていた。
        無意識のまま身に付いている、魅せること前提の歩き方。
        足に負担のかかる歩き方でも、全くそれを感じさせない。遠い背中だった。
        それを見て、本当はこういう人なのだと黒子は気付いてしまった。

        結局少しだけ走ってようやく追い付き、声をかける。
        黄瀬は瞬時に振り返って足を止めた。
        「ずいぶん速く歩くんですね、…最初なかなか追いつけなくて、意外でした。」
        「黒子っちがいるって分かってたら、俺からそっちに行ったのに。」
        近づいた黒子の姿を確認してから、柔らかく人懐こく、笑顔を浮かべる。
        それから用事のないらしい黄瀬と帰路を同じにした。

        「僕は、非常に見つけにくいと思いますけど。」
        「そんな事ないよ。黒子っちを見つけるの、得意だしね。」
        自分の存在に気付いていない背中は、あれほど追いつくのに苦労するものだったのに。
        その後はいつも通りに並んで歩いているのが、不思議で仕方なかった。



        一緒に過ごしているときの黄瀬は、授業の内容や、休み時間や部活中の出来事というものを
        片っ端から、引き出しいっぱいに仕舞い込んできて、小出しにしては会話を絶やさない。
        気を引くのに懸命な様子で、すらりと伸びている上半身を時折猫背にしてまで、視線は黒子によく向く。
        出来るだけ近い距離を保とうとするのを、黒子から咎めることはなかったが、理解はしないままでいた。
        黄瀬は黒子に気付かれないほど自然に、喋りながら、ゆっくり歩いている。
        歩幅の違いにもたつくことはない。

        どんな時も、歩み寄って距離を縮めているのは黄瀬の方だ。
        並んで歩いている事自体、黄瀬の気遣いがそうさせているものだと気付いてから
        黒子の、黄瀬を見る目は変わっていった。



        誘われるままに寄り道をして、飲食店の扉を開ける時も
        並んで歩く黄瀬が腕を伸ばし、扉を開けて黒子を中へ促す。
        下校中の手荷物が多い時も、断る隙のないまま、大きい方の荷物を預けてしまう。
        次々に自然と出てくる相手を優先させ身を案じる仕草を、いつから身に付けているのかは知らない。
        過去の交際がどうであれ、仕方のない事だと諦めはついている。
        同じようにエスコートされた誰かも、きっといたんだろうと、想像するのは難くない。

        けれど度を越して、人目に付く場所でもあまりに甲斐甲斐しく、そっと守られるようにされるものだから
        一度だけ抗議したことがあった。
        「そんな事までしなくていいです。」
        「・・・・・何のこと?」
        「そういうの、僕にはしてくれなくていいです。女の子じゃありませんから。」

        ばつの悪さを悟られぬよう、取り澄まして言った言葉に
        黄瀬は目を見開き、少しだけ動きを止めた。
        「女の子にはあんましたことないっスよ。黒子っちには…、なんか自然にしちゃうんス。」
        指摘され初めて気付いた。
        そう証明するように、うつむきがちな顔で照れて顔を綻ばせる。
        「だから許してよ、ね?」と、嘘ひとつ無い朗らかな顔で微笑まれてしまう。
        店の正面扉は、黒子を甘やかす己を肯定するよう、勢いよく押し開けられた。

        つまりはこういう人。黄瀬に対しての新たな認識がまたひとつ加わった。



        また会うたびに率直な言葉で、切なる想いを告げてくる。
        時にあっけらかんと、時に丸め込むよう、呪文のように黄瀬が繰り返す言葉は
        短く流れてしまうものばかり。けれど何故かどれも本気が見え隠れしているのが分かって。
        黒子を説得するように、己を慰める響きも雑じえて繰り返す告白の言葉は
        見返りを得られず2人の間で消えていくのに
        黄瀬は全部中身を詰めて、それらを黒子に与えていた。
        実の所、黒子が澄ました顔の裏で感じている、恥ずかしさだったり、心地良さだったりするものは
        日に日に増していくばかりだった。

        好意を寄せられることが嫌じゃない、気持ちいい、嬉しい。

        人目を集める容姿を自覚し、賑やかな周囲をあしらう術に長けている。
        不特定多数に欲しがられる人だから、自分に向けてくる笑顔だけが特別だなんて到底信じられないのに
        自惚れてしまうほど、極端に手厚く熱心な恋情を伝えてくる言葉たち。

        好意に酔うばかりの自分は好きじゃない、可笑しい、苦しい。

        仕事の話はあまりしないから分からない。黒子も聞かないし、黄瀬も好んで話そうとしない。
        けれど学校と仕事と、忙しい合間にこうして黒子との時間を作り出す黄瀬が
        実際どれほどの事をこなして黒子に会いに来ているのか、
        追いつけない歩調の速さを知って、初めて理解が追いついた。

        2人が並んで歩くことは、本来ありえない。
        2人が一緒にいることも、本来ならばありえない。
        黄瀬が無理をしなければ、歩み寄って来なければ、この関係は成り立たないことを黒子は知った。







        もう何度目になるのか、久しぶりに揃った休日を翌日に控えた夕刻。
        部活後の待ち合わせから家路までを連れ回され、連れ込まれた黄瀬宅で。

        覆い被さってきた相手の腕力に抗えず、反転。
        私室のベッドに組み敷かれた。
        せわしなく制服の胸元を肌蹴られ、ベルトを引き抜き、倒された身体に乗り上げてくる。
        近付いてくる鼻先をかすめて一回、長く触れるだけの口付けを落とされる。
        乾いていた唇の表面が、重ね合わせられるうちに湿ってきて、その気恥ずかしさに焦れてくるうちに
        ついと離される。そうして初めて互いの目線を交わし、瞳の中にちらつかせる色欲を感じ取って
        長く触れるだけのキスからその先、少しずつ、互いの粘膜を塗り込めるように舌が動く。
        甘くただれた、濃密な気配を逃さない。蓋をするように進んでいく。
        なけなしの意識を飛ばしていく。







        2人分の熱を溜めたベッドの上で、黒子は目を覚ました。
        背後から抱き枕のように腕を回され、腰をしっかりと抱え込まれ、ぴったりと横抱きにされている。
        体格差のある黒子に、体重がかからないよう配慮されているけれど
        消耗しきった身体をこうも密着して抱かれていては、身動きのしようがない。
        シーツに包まれた、重だるい下腹部。汗混じりの残り香。くらくらと不明瞭な思考。
        今日もまた、身体中に沢山の痕が残った。

        胸元、股の内側、およそ信じられないような場所にも、幾つか付けられていたけれど
        黄瀬の行動はけして乱暴ではなかった。
        快楽に伴う苦痛を訴えて、踏みとどまってくれる事は半々だったが、荒々しいことはなかった。
        酷く抑えが効かない日もあったけれど、粗雑に高められることはなかった。
        丁寧に、壊れないように扱われて何度も。何度も。
        結果、限界まで使い尽くされてしまう。痕跡が身体中に染み付いてしまう。
        大切にされるがあまり、擦り切れていくような感覚に毎回似ていた。
        身体が回復する過程までも本当に、本当に、大切に扱われたから不満はなかった。

        絶えず泣かされている時、安息の時、変わらず全身を探り、力強く抱きしめてくる手のひらは
        黒子を腕の中に囲ってしまってもなお弱められない。
        性感帯を突くよう、自信をもって触れてきているのでない。
        ここにいることを確認するかのように、四肢の輪郭や、皮膚の表面をなぞってくる動き。
        まるで不安を払うかのような動き。
        別々に離されるのを恐がって、必死に縋り付いてくる感触と同じように思った。






        「好きだよ、黒子っち。」
        足を組み替えようと身じろいだところで、背後から声がかかる。
        黄瀬の目覚めも同時らしく、腰ごとぐっと引かれて、丸めた背がさらに折れる。

        「・・・・・寝惚けてるなら、少し、黙っていてください。」
        囁かれた吐息が首筋を伝い、温度差にぞくりと震える。
        そんなわずかな反射を、至近距離の黄瀬には見破られ小さく笑われる。

        「ねぇ、どうしてそんなに可愛いの。」
        「・・・・・知りません。この状態でそう見えるなら、キミの目は、おかしいです。」

        「おかしくないよ。好きだよ、黒子っち。」

        互いしか見えていない狭い空間で交わされる進歩のないやり取り。
        止め処無く与えられる甘い睦言。
        それらは一方的なのではなく、本当はもう返せる状態なのに
        滑らかなはずの黒子の言葉はいつも、喉舌につかえる間に妙な色合いに変化する。



        「一度でいいから、嫌いって。言ってみてくれませんか。」

        脈絡のない提案に、黄瀬の言葉が詰まる。
        「無理だって、分かってて言ってない?」
        「・・・・・ダメ、ですか。」
        「ダメ。そんな思ってもみない嫌な台詞、軽々しく口に出せないよ。」
        深く息を吐き出して、要望は拒否される。


        「じゃあ、僕が言います。」
        下半身を拘束する腕から逃れ寝返りを打ち、あらためて黄瀬と向きあう。
        最後に顔を合わせたのは、眠りに付く直前。
        快感の経路を辿りながらも、重ねて喉元に食らい付いてきた先刻とは違って
        今の黄瀬の表情は晴々と穏やかだ。貪欲な色を隠し、視線の熱っぽさはすっかり引いている。
        ただ静かにこちらを見つめてきている。


        これまでの彼から伝わるものを、溢れないよう受け取りながら。
        努めて隠している彼の内情や、気取らない告白の意味、
        自分なりに解ってきた2人の関係をすべて縁り合せていくうちに
        黒子は始終、黄瀬のことだけを考えて、そして埋め尽くされた。

        「好きです。」
        「黄瀬くん、僕はキミが好きです。」

        もう長らく自分の中で留まっていたもの。
        感情の淵から根こそぎ絞り取って、出てきた言葉はこれしかなかった。
        今まで一度も言えていなかった。
        甘苦しく、くどいほどに濃縮して、切り捨てる事も出来ず募っていた感情をぶつける。

        「お願いだから、そばにいてください。」
        少し間を置いて、二言めは震えていた。
        黄瀬からの好意に酔い、浮かされ、流されていたばかりの感情がようやく
        相手を想う気持ちに辿り着く。
        黒子のする事なす事、全てを許してしまう勢いの黄瀬に、暗示をかけられているような錯覚もあったけれど
        例え彼に無言の背中を向けられていたとしても、今の自分の気持ちは揺るがない。




        持て余していた恋しさを訴えた先の黄瀬は、薄く口を開いただけで固まっていた。
        続く瞠目。
        何事か思案し、乾いた口腔を濡らすように数度歯噛みしたあと
        寝崩れていた頭を持ち上げ、顔を寄せてくる。
        「それ、思っても・・・・・みない、こと・・・・・?」
        見開かれた瞳が、伏せられ細くなるにつれて、切羽詰ったような眼差しに変化する。
        苦しくて泣き出しそうな、あまり見たことのない表情になって
        黄瀬が本心から余裕を無くしていくのが見て取れた。

        黒子は目の前に降りてきた首筋に、両腕でしがみ付いた。
        「今まで、言えてなくて、すみません・・・・・」
        固くしなやかな喉元に、ささやかな口付けをして本気を訴える。
        舌先に感じた汗の余韻が少し辛かった。
        黄瀬の半身が竦み、敏感な反応を返してくるのが、たまらなく嬉しい。


        「少しずつ、ゆっくりと…近づいていきたいんです。」
        自分からどこまで近づけばいいのか、まだ距離感を掴めていない。
        「今度…、僕の家に来てください。」
        黄瀬になら知られてもいい。全てさらけ出し、侵されてもいい。
        いつも自分が眠る場所で、ひっそりと声を押し殺して、きつく抱き締められてもいい。
        「海常の近くでも、待ち合わせ…してみたいです。」
        迎えなんていらない。双方から歩み寄って、並んで歩きたい。

        芽生えたばかりの危なっかしい積極性を、黄瀬がどう捉えたのかは分からないが
        無言で乗り上げ、屈んできた身体は熱く。食らい付く寸前の芳しい匂いを楽しむように
        軽くくすぐったいキスが、黒子の額から頬、喉元から鎖骨までを行ったり来たりで降り注ぐ。
        一途な告白が実を結んでのち、黄瀬は何も喋らなくなった。
        というより感動して何も喋れなくなった、というのが正解だったけれど。
        素肌に吸い付くばかりじゃ飽き足らず、踵ごと足首を持ち上げられ
        至る所を口に含んでこようとする動きに、思考するどころではなくなった黒子は気付かなかった。
        知る由もなかった。

        想いを結んだ身体を今度こそ、2人は初めて結ぶ。













          「そして懐柔」がなだれこむ発端で、今回はようやく黒子からも結び付きました。みたいなイメージで。
          黒子は貞操観念しっかりしてそうだと思ってます、が
          なぜか身体から入っちゃう黄黒ばかり出来上がるという・・・なんでだ。
          読了どうもありがとうございました。