秋波さざなみ  







        「すみません、もしかしたら。浮気したかもしれないです。」
        つい先刻まで、境界が分からなくなるまでの時間、重ね合わせていた唇が発した言葉を
        黄瀬は瞬時に理解できなかった。

        黒子が一度に伝えてくる文章量はとても少ない。
        極めて端的なその喋り方は彼らしさの一つでもあったが
        ああ言えばこう言う、跳ね返ってくる会話は彼を気に入っている一因だと黄瀬は十分に理解している。

        黒子はその一言以外、言い訳がましい言葉を続けなかった。
        黄瀬の反応を待っているようでもなかった。無意識のうちに一人言を呟いたつもりだったのかもしれない。
        薄暗い部屋のベッドの中で、触れてくる黄瀬の呼気に感じ入って枕元へ反らされた視線はそのまま。
        抱かれている背筋に少しこわばりを残している。
        一瞬だけこちらを見やった視線はどちらかといえば、深まる感触に焦れている様子で
        細められた目は快感に屈服しないまま、さらさらと揺れる前髪の隙間から覗く。
        緊張を隠そうと努めて涼しげな黒子の目尻は、自分以外とても他人の目には晒したくない類のものだった。

        「・・・・・どういうことっスか。」
        事の深刻さはあえて無視し、不機嫌な色を残して、短く返すのがやっとだった黄瀬は
        下肢の先に滑り込ませていた指をずるりと引き抜く。
        「・・・っ、・・・・・・・・・。」
        中指の腹がこすれた瞬間に肩先を浮かせビクリと震えた黒子が、口を利けるまでの静寂。
        次の言葉がどう跳ね返ってくるのか、これほど恐ろしく感じた事はかつて無かった。





        黒子の足の裏には、最近いつも小さな赤い切り傷が付いていた。
        それは程度の浅い傷だったが、衛生上、常に絆創膏で保護されている。
        が、床面と着かず離れず、飛び跳ねる動きの頻繁な部活中にはどうしてもテープの粘性が弱まり、
        バッシュの中でずれてしまうことがあるため、休憩中、人目を避けては部室内の救急箱の世話になることになる。
        小さな切り傷も黒子の行動も、これまで誰かに気付かれることはなかった。

        いつもと同じように一人密かに部室へ戻った黒子は、室内のベンチに腰かけて裸足になり、
        折り曲げた片足を寄せて傷の具合を見ていた。
        靴底と擦れてはいたが出血はしていない。ピリっとした痛みも薄れてきている。
        経過は良好であると確認し、救急箱を開けて消毒液を取り出そうとしているところへ
        突然入室してきたのは日向だった。
        何か遅れる用事があったのか、まだ制服姿でいる日向は自分のロッカーに荷物を置いてからようやく
        ベンチに座る黒子の姿に気づく。
        「うおっっ!!?.なんだ、居たのか。」
        「どうも。」
        「あー、やっぱ気抜いてると全然気づかねーもんだな・・・。」
        練習着のTシャツを取り出してすばやく着替えながら、日向の視線は背後に腰掛けている黒子の足へ向いた。
        「どこ怪我してんだ。」
        「足の裏ですけど。」
        「はぁ?また妙なとこ切ってんな。」
        「痛くないし浅いんで、すぐ治ると思います。」
        「自分のカラダぐらいしっかり管理しとかねーと、そのうちデカイ怪我すんだからな。気ぃつけろよ。」
        「・・・・・ハイ。」

        マネージャー不在、カントクは紅一点のバスケ部で、保険医の手を煩わせることもない浅い傷は
        自分達で手当てを済ませてしまっている。
        選手層が厚いとは言えない創立2年目の部内で負傷者を出すことは致命的で、怪我人には他校より一層慎重になる。
        だから日向の忠告はもっともだったが、実のところ、黒子の傷は実は部活中に出来たものではなかった。

        「・・・・・ダメだぞ、あんまり消毒すんのは。」
        患部に消毒しようとしていたところで、振り返っていた日向から声が掛かる。
        運動着に袖を通し準備を終えた日向はロッカーを閉め、ベンチへ近付いて来た。
        「治りかけてるとこ消毒すると役に立ってる細胞まで殺すから、逆に治りが遅くなんだよ。
         こういうのは傷口から出てくる体液をそのままにしとくのが、一番手っ取り早い。」
        「物知りですね。」
        「他人の受売りだ。貸せ、やってやるから。」
        「え、・・・・・・・。」
        日向はベンチに座っていた黒子の目の前に跪いた。
        「こっち出せ。」
        折り曲げていた片足を前に差し出すようにされて、踵ごと持ち上げられる。
        不意打ちの動きに、背後に反れた身体を後ろ手で支え、黒子は動きを止めた。
        「左足、だけか?」
        「・・・・・・・ハイ。」
        返答すると、日向は救急箱から、ガーゼ面のない半透明のフィルムを取り出した。
        黒子の膝元にしゃがんだ日向の手先は、ずいぶんと慣れている。
        居残ってシュート練習をしている姿を時々見かけることがあるこの人は、もしかしたら
        他人に知られない生傷を自分で処置することが多いのかもしれない。
        眼鏡の細いフレーム越しに見える瞳は、試合中スイッチが入った時のように鋭く、やけに真剣だった。
        「防水になってるから、今度からこっちの使うんだな。」
        粘着力の強いテープが患部に貼られていく。
        ベンチに座り、足裏を差し出した状態の黒子は、日向に手当てされるがままになっていた。
        左足を踵ごと持ち上げられ、極めて無防備な体勢。
        足裏の急所に触れられているというこそばゆい感覚を受け流しながら。
        手当てを受けている最中のそれが、その傷を付けた時と同じ体勢であることに気付いたとき
        黒子は腹部から下、生温く蒸した舌の感触を思い出して、固まってしまった。